図書館を後にし、私は稽古場に顔を出した。
ドアを開けると、肌寒い外の空気が差し込み、そのままダンスルームに留まった。冷めた空気だ。
稽古に打ち込む役者たちの汗と熱気がこの空間の支配者であるはずだった。冷たい空気など、一瞬で吹き飛ばすほどの熱量が渦巻く場所なのだ。
だが、今、この場所を支配するのは、気だるく、淀んだ空気。
ダンスの練習をする踊り子たちも、どこか気もそぞろと言った風情である。
あの事件以来、ルシャン役に名乗り出る者はいない。
企画自体を降りようという劇団も出始めた。大事な役者を壊されてはたまらない。これは当然のことと言える。
誰もが浮足立った表情を浮かべる。このままでは、夢の祭典自体が、夢幻の如く瓦解してしまうだろう。
だが総監督を務めるサルバリータもまた、クリスレイ・ショックの影響か、稽古場に顔を出す回数が減り、精彩を欠く指揮ぶりである。
停滞。白けた空気が稽古場を覆い尽くす。
皆の注目は、ラスターシャに集まっていた。
プレシアンナのお気に入り。メギストリスの新星。活劇ヒーロー、剣士ルシャンの最有力候補。
あるいは、モンスターゾーンの生贄。
噂の風の中を泳ぐように、彼女は一心不乱に舞の稽古を続けていた。
彼女がどうするつもりなのか、私もリルリラも聞いていない。クリスレイのこと。プレシアンナのこと。聞くに聞けない雰囲気があった。
だが、そろそろ話を次の段階に進める時である。
私はさりげなくそばに近寄ると、リュートを手に取り、軽く音を合わせた。
踊り子の白い脚がリュートのリズムに乗り、ふわりと浮かぶ。
舞は歌えど言葉は紡がず。その姿は、瞑想にふける神官を思わせた。ダンサーズ・ハイ。
……と、私は脈絡もなく指を止めた。音が止まれば踊りも止まる。きょとんとした顔つきでラスターシャは私を振り向いた。
不意打ちには絶好の空白が、彼女の頭に入り込んだ瞬間だった。
「どうするんだ? ルシャン」
直截に、私は尋ねた。唐突に逃げ場を失った踊り子は、恨みがましい視線を投げかけた。
私は黒眼鏡をかけ直し、そしらぬ顔で飲み物を差し出した。
「オファーは来ているんだろう?」
「まあ、ね……」
人気のない場所に移動し、彼女は大きくため息をついた。
軽やかなステップの裏に隠していた、重いため息だった。
「迷っているのは、クリスレイのこと、か?」
ラスターシャは首を振った。
「自信がない?」
答えは同じ。ま、そうだろう。
ならば……。
軽く咳払い。私は核心に触れる言葉を、ただ一言、発した。
「サルバリータ」
彼女は指で壁を叩いた。
小さな、しかし太い音が沈黙を細く貫く。
ラスターシャは何か言おうとして、すぐ口を閉じた。またも溜息。首を振ること数度。
私は待った。言いたいことが多すぎて、言葉が出てこないこともあるものだ。
「私たち、踊り子はね」
何度目かの躊躇の後、彼女はやっと言葉を紡ぎだした。
「踊り子は一人で踊ってるわけじゃないわ。舞台は安全かどうか、道具はちゃんと整備されてるか。周りがきちんと支えてくれるって信じてるから安心して踊れるのよ」
一度口にすると、後はもう止まらなくなる。興奮が背中を押し、踊り子の唇は矢継ぎ早に言葉を重ね始めた。
「ナッチョスはあんな風だけど、踊り子を大事にしてくれるわ。怪我をした踊り子は絶対に踊らせないし、売れっ子もそうでない子も、同じ身内だって言って、親身になって世話してくれてる」
そこまで一息で言い切った後、彼女は肩を落とし、床を見つめた。
「でも、あの人はどうなんだろうって、思っちゃったのよ」
「プレシアンナが言っていたことか」
「うん……」
ラスタももちろん、自分の人気がクリスレイを踏み台にして得たものだと分かっている。それが偶然の流れによるものだと思っていたから、彼女も割り切って踊れたのだ。
だが、もしサルバリータがわざとクリスレイを咬ませ犬にしたのであれば。
「……そんな人の下では踊れないわ」
彼女ははっきりと言い切った。
私は、何も言えなかった。
プレシアンナの言葉が真実であることを。私は知っている。他ならぬサルバリータの口からそう聞いたのだ。
だがその一方で、クリスレイの怪我に取り乱した彼女の姿は、演技には見えなかった。
それは私の目が節穴だからだろうか。
往年の名女優が見せる虚実入り乱れた姿が私を悩ませた。
そしてその悩みの種は、今、再び私の背後に姿を現したのである。
「そう、それで返事がもらえなかったのね」
振り向くと、サルバリータは静かにそこに立っていた。