私は今、パンである。
私はこねられたメルサンディのパンにされている。
私は食べられるか腐るかばかりの存在であり、
手足もなく、動くことも出来ないでいる。
こうした私の現状はさておき、
私を見下ろす女性をご覧になって欲しい。
メルサンディという田舎の村には恐ろしく悲しい
魔女の話があるのだが、写真の彼女が当人だ。
この魔女はもともとなんの力も持っていない
いたいけな少女であったが、
魔法の力を先祖代々持っていたばかりに、
不穏因子であると偏見と差別を食らい、
貧困によってやつあたりの標的にされ、
村から逃げようと精霊にすがったものの、
精霊に見捨てられて孤独に崖下へ落ち死を遂げる。
恨み辛みによって彼女は真の魔女と化し
100年後のメルサンディ村を襲うのである。
ところで魔女という単語は
女という単語こそ付いているものの、
古くは男の魔法使いにも使われ、
また文献こそ少ないものの、
男の「魔女」たちも人々の偏見によって
虐殺を受けてきた歴史がある。
私は魔女でこそないものの、
閉鎖的な思想を続ける
陰惨な故郷から出ていきたいという
藁にも縋る気持ちを痛いほど知っている。
行き場のない足取り、どこにあるか解らない希望、
じわじわと己を蝕む不安と村の閉鎖的空気は、
打ち捨てられた精霊信仰に
足繁く通う理由に十分だったろう。
だが「英雄」精霊ザンクローネは、
ほとんど無償で己を長く信仰してくれた娘よりも、
己の存在を忘れ、魔物を倒さなければ
何一つ感謝もしなかったであろう、
ごく物質主義的な村人たちの方を選ぶのである。
このザンクローネの場当たり的な浅はかさは
助けを求める娘を冷たく突き放し、
彼女を死に至らしめ魔女に変える。
彼女が村人たちによる虐待を訴えれば、
ザンクローネは少しは変わったのだろうか?
私はそうは思わない。
私はそうした必死の訴えを、
多くの人は信じず、関わろうとしないことを
知っている。
こうした偏見と差別の話は、100年前の話ではない。
現代の日本でも色濃く残り、人を蝕む話であるのを、私は身に染みて知っている。
人の偏見と差別が代々に渡って
続くことを知っている。
親が教え、子がそれをなんの疑問もなく
覚えることを知っている。
多くの人々が、己が差別や偏見に加担している
自覚がないのも、
差別という定義すら理解ができないのも知っている。
100年を超えても消えなかった
魔女グレイツェルの恨みは、
村を愛する作家アイリによって、精霊ザンクローネの贖罪を兼ねた死と引き換えに打ち消され、
「ハッピーエンド」として描かれるものの、
私にとってはしこりの残る終わりであった。
魔女グレイツェルだった少女は、
現代の村を襲った魔女として、
村の子供に「あんたのことは守るが、
あんたは死よりも辛い苦しみに遭う」と宣告され、
村に帰って住めと訴えられ、これを受け入れる。
私は魔女グレイツェルが
現代の村人を殺していることも、
魔女を虐待したのが
現代の村人ではないことも知っているが、
村の子供がこんなことを吐き捨てる村というのは、
果たしてどのような道徳のある村なのだろうか?
確かに魔女が虐待を受けたのは100年前だ。
だが、たった100年前でもあると思う。
100年前の村人たちの思想が
既に今は失われているに違いないなどと
誰が保証できるのだろう?
己を謂れなく虐待した村人の子孫たちに囲まれ、
子供ひとりに死よりも辛い苦しみがあると宣告され、そのような宣告をした子供からの守護を
頼りにしなければならない娘の心を思うと、
私は物語の裏に隠された
魔女の怨念や悲しみに同情せずには居られなくなる。
私は今、こねられたただのパンにされている。
手足もなく、どこにも行けず、誰にも頼れない。
願うことならこの残忍さと浅はかさを
隠した村から早々に出ていきたい。
手足があり、私にその力があるなら、
魔女であった彼女の手を取り、
村ではない別のどこかの街へ連れていきたい。
魔法を使えた程度では
なんとも思わない街など
アストルティアにならある筈だ。
願いがかなわなければ、
腐るか食べられるしかない。