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一人前の庭師

フィンク

[フィンク]

キャラID
: DK849-813
種 族
: 人間
性 別
: 男
職 業
: 魔剣士
レベル
: 130

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フィンクの冒険日誌

2023-05-04 11:45:59.0 テーマ:その他

東西文明における心理学の位置付け 中編

仏教には、

心理学で言うところの、
無意識に相当する概念があり、

それは、「まな識」と呼ばれる。


では、なぜ、

そのような概念があるのか?

順を追って説明していきたい。



心理学誕生のアプローチは、

それまで、「外」に向けられていた目を、

「内」へと向けた事だった。


しかし、自分を知るという事は、

一方で、別の意味での、

「外」へ目を向ける事にも繋がっていく。



例えば、
自分がどういう存在であるかは、

自分と他者とを比較して、
どこがどういう風に違うか、

時に、平均を取ったり、
或いは、抽象的な範囲を求めたり、

そんな風にして知る必要性があるからだ。


よく「他人と比べるな」とは言われるけれど、

他者との比較なしには、

そもそも、

自分がどういう存在なのかは、わからないのだ!



だが、ここで、
大きな問題に打ち当たる。

それは、
いざ比べてみると、

時として、あまりにも違い過ぎて、
比較対象としては、適当ではないからだ。


生まれ、育ち、資質、境遇。


五体満足で産まれる者もいれば、

何らかの障害を抱えて産まれる者もいる。


比較的順調に人生を生きられる者もいれば、

産まれてすぐに命を落としてしまう子もいる。


残念ながら、
心理学の範囲だけでは、

こういった問題に、
答えを導き出す事が出来ないのだ。



なぜ!!

生まれながらにして、

このように越え難い壁があるのか?



昔は、身分制度もきつく、
それは、現代よりも、
なお重たい問題でもあった。


この問題を解決しない事には、
人間の真の幸福について、
論じる事が出来ないわけである。



そこで、仏教では、
「輪廻」という事を説いた。

生まれた時点で、既に一つの結果を持ち、
それは、その後も、大きな影響を与え続ける。

また、或いは、
時をおいて、発現していくものもある。


ならば、それは、

その者の誕生以前に、
何らかの原因があるからではないのか?

そう考えたわけだ。



念の為に、
僕の科学的スタンスを、
もう一度述べておく。


「輪廻」という現象が、
あるにせよ、ないにせよ、

それを科学的に証明する事は出来ない。

最も謙虚で、正しい回答は、
「わからない」ではないかと思う。


しかし、「悟空」編で述べた通り、
そして、アインシュタインがそうしたように、

例え、
科学的に証明出来ない範囲の事であっても、

人はそれについて、
科学的思考を巡らす事は出来るのだ。


ちなみに、「悟空」編を読むと、
今回の内容も、より深く理解出来るので、

興味があるという人は、読んでみて欲しい。

では、まず、
輪廻が「ない」場合から考えてみよう。


その場合、

生物は何者であれ、
何の原因もなく、唐突に、

誕生と同時に、
何らかの結果が与えられるわけだ。

それは、完全にランダムだと言えるし、

さらに、それが、
最初で最後の生でもあるわけだ。


例えば、現在でも、
「親ガチャ」という言葉があるが、

決して、自らの内側に、
何らかの因縁があるわけではないのだ。



だが、それは!


幸不幸の根本的な原因は、

結局のところ、

自らの「内」にはなく、
「外」にある、という事になる。


突き詰めると、


「どんなに努力をしても、
 結局は、神様のせいで幸せにはなれない。」


という論法が成立してしまう事になるし、


そうなると、今度は、


「生きている間は悪事の限りを尽くし、
 どうにもならなくなったら死ねばいいか。」


という極論にも繋がっていく事にもなる。



さて、以前、「ジャンヌ」編で


正しい宗教とは、
外圧の威によって、人を縛り付けるものではなく、
内発の心によって、人に善を為させしむるものだ。


と、書いた。



つまり、

例えば、法律のように、
外から人を縛り上げる制限のせいで、
消極的に悪事を働かない人間ではなく、



自発の意志によって、善行を為す!



そういった人間を育て、
道徳心を養うという事が、

長い間、宗教に求められ、
また、果たしてきた役割だったのだ。



そう考えると、


科学的に証明出来るとか、出来ないとか、
そのような問題とは、全く別の観点から、


仏教としては、

輪廻は「ない」とする立場は、
到底、受け入れ難い大問題だった事が、

容易に想像出来ると思う。



では、次回、

最後は、


輪廻が「ある」場合について、
あれこれ考えてみる事としたい。
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