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一人前の庭師

フィンク

[フィンク]

キャラID
: DK849-813
種 族
: 人間
性 別
: 男
職 業
: レンジャー
レベル
: 130

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フィンクの冒険日誌

2023-05-10 08:23:04.0 テーマ:その他

東西文明における心理学の位置付け 後編

実のところ、

「輪廻」という概念自体は、
仏教の誕生以前からあった。


ただ、当時も、


輪廻はあるのかどうか?

仮にあったとして、
その前後で、因果関係は引き継がれるのか?


等、様々な論争が起きていた。



仮に、輪廻は「ある」けど、
その前後で、因果関係は「引き継がれない」、

とした場合、


幸不幸の原因は、結局のところ、
自らの「外」にある事になり、

仮に、

悪事の限りを尽くした一生を終えたとしても、

そんな事とは全く無関係に、
可能性としては、

次の生で、
恵まれた境遇に生まれるかもしれない。



ただ、

輪廻が「あり」、
その前後で、因果関係が「引き継がれる」、

とした場合にのみ、

幸不幸の原因が、究極的に、
自らの「内」にある、という事になるのだ。



さて、ここで、

冒頭をよく思い出して頂きたい。

そもそも、心理学的なアプローチは、

自らの「外」にあると思われた原因を、

自らの「内」に見出した事だった。



つまり、

幸不幸の究極的な原因を、
自らの「外」に見出すのであれば、

それまでの心理学的アプローチを覆す事になるし、
正直なところ、ちぐはぐ感は否めない。

当然、
心理学の意義も、大いに薄れる事になる。



一方で、

自らの「内」に求めるのであれば、

それは、
心理学的アプローチを延長した形になり、

むしろ、それは、
心理学を肯定した形にもなる。


そして、

幸不幸の究極的な原因を、
自らの「内」に求めるからこそ、


「自分を改めさえすれば、幸福になれる!」


という論法が成立するのだ!


「幸不幸を決めるのは、神様ではなく、

 あくまでも、自分自身なのだ!」


言うまでもなく、
仏教が取った立場はこれである。

では、仮に、

ある性質を備えた者が、

死という休眠期間を経たからといって、

全く別の性質を持つ者に変わるだろうか?



心理学では、

普通に、一晩、寝たからといって、
人間の無意識が大きく変わる事はない。


で、あるのなら、

輪廻の前後で、

その者を、その者成らしめる、

何か、一貫性とも、連続性とも、

呼べるものがあるのではないか?



仏教では、それを、

「あらや識」と呼んでいる。


この、「あらや」という言葉には、
「棲む」とか「蓄える」という意味合いがある。



では、ここで、
前編の問いに戻るが、

なぜ、仏教に、
心理学の無意識に相当する概念、

「まな識」があるのか?

という問いだが、

それは、この、
「あらや識」へと繋がっていく為だったのだ。



だが、この、
「魂の一貫性、連続性」とでも
呼ぶべきものを認める事は、

一方で、残酷でもある!


なぜなら、

記憶にも残らないような遠い過去の罪業が、
現世に災禍を呼び起こしてしまうからだ!


理不尽な挫折に遭い、

かけがえのない存在を失い、

無理解な他者に軽んじられる。


木の葉が風に舞うように、

運命に翻弄され、

さらに、その為に、新たな罪を重ねる!


それは!


「どんなに努力をしても、
 結局は、神様のせいで幸せにはなれない。」


という問題が、


「どんなに努力をしても、
 遠い過去の罪業のせいで幸せにはなれない。」


という問題に、
単に、置き換わっただけだからだ。


確かに、
問題の本質は、大きく前進しているだろう。


しかし、「救いがない」、
という結果だけを見ると、大差がないのだ。



だが!

仏教は、決して、

人の罪を責めたいわけでも、
烙印を押したいわけでもないのだ。


だから、この遠い過去の罪業に、
「極めて前向きな解釈」を持たせた。


それについては、
ほんのさわりではあるけれど、

既に、僕の冒険日誌、
「同苦の誓い」、「続・シンデレラ」に、
記しておいたので、

興味が湧いた人は、読んでみて欲しい。



さて、今回は、

心理学に関連する内容を書いたつもりだが、
随分と、宗教色の強い内容になってしまった。


なるべく、科学的思考に基づき、
論理的に書いたつもりだったが、
いかがだっただろうか?


また、いずれ、
別のアプローチからも書いてみたいと思う。
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