世界には、冬しかなかった。
雪は昨日の足跡を消し、
風は今日の声をさらっていく。
春という言葉を知る者はいても、
春を見た者は、もう誰もいなかった。
そんな白い世界の果てに、
一本の大樹がいた。
葉を落とさず、
雪に埋もれず
何百年もの吹雪にも耐え続ける、不思議な樹。
その根元に、一人の少女が暮らしていた。
少女は、母を知らなかった。
ある吹雪の夜。
泣き疲れた少女は、
大樹の根元で眠った。
朝、目を覚ますと、
枝が雪を遮るように少女を覆い、
傍らには赤い実がひとつ落ちていた。
甘い実を頬張り、
少女は大樹を見上げた。
「……お母さん?」
返事はない。
それから毎朝、
少女は幹の雪を払った。
「おはよう、お母さん」
返事はない。
昼になれば、根本に腰掛けて夢の話をした。
「昨日ね、空から雪が降ってきたの」
返事はない
夜になれば、太い根に身体を預けて眠った。
「おやすみ、お母さん」
返事はない。
大樹は、少女を愛していたわけではなかった。
そもそも大樹は、
愛というものを知らなかった。
根は水を求める。
枝は光を求める。
実は地へ落ちる。
ただ、それだけだった。
少女が寒さに震えた夜、
根元がわずかに暖かかったのも、
少女が空腹で泣いた朝、
ひとつの実が雪の上へ落ちたのも、
少女を守るように枝が雪を遮っていたのも、
すべて、少女がそう思っていただけだった。
「ありがとう、お母さん」
大樹には、その言葉の意味が分からなかった。
けれど少女は、毎日言った。
ありがとう。
大好き。
行ってきます。
ただいま。
おやすみ。
お母さん。
何年も。
ある日。
少女はいつものように森へ出かけた。
夕方になった。
帰ってこなかった。
夜になった。
帰ってこなかった。
雪が降った。
それでも帰ってこなかった。
大樹は、いつも通りそこに立っていた。
風を受け、
雪を受け、
ただ静かに。
けれど、その夜。
一本の枝が折れた。
理由は分からなかった。
次の日。
大樹の根が、
初めて土の外へ這い出した。
何百年ものあいだ、
一度として動くことがなかった根だった。
雪を掻き分ける。
凍った大地を割る。
何かを探すように、
白い世界を這っていく。
大樹にはまだ、
その理由が分からなかった。
ただ――
いつもそこにあった声が、ない。
「お母さん」
あの音が、聞こえない。
それだけだった。
やがて根は、
雪の中で少女を見つけた。
小さな身体は、
吹雪の中で丸くなっていた。
大樹の根が少女を包む。
冷たい。
その瞬間だった。
大樹のすべての枝が、
空を覆った。
風が止まった。
雪が止まった。
世界中の地面を、
無数の根が走った。
遠くの森が枯れた。
湖が凍った。
動物たちが眠りについた。
世界中から熱を奪ってでも、ただ、この小さな命を温めたかった。
もう一度、その声を聞くために。
ありとあらゆる熱が
奪われていく
そのすべてが、
少女の身体へ流れ込んだ。
「……あったかい」
少女が目を開けた。
「お母さん……?」
そのとき初めて。
何百年もの時を生きた大樹は、
自分が何をしたのかを知った。
生命を守ったのでもない。
摂理に従ったのでもない。
ただ。
この小さな命を、
失いたくなかった。
少女は大樹の根を抱きしめた。
「助けてくれたんだね」
違う。
「やっぱり、お母さんだ」
違う。
大樹は、
母などではなかった。
けれど。
少女を包む根が、
ほんの少しだけ強くなる。
それから冬は、
終わらなくなった。
人々は言った。
あの大樹が春を奪った。
あの大樹が世界を凍らせた。
あの大樹こそ、
永遠の冬を生み出した災厄なのだと。
それは正しかった。
大樹は世界よりも、
たった一人の少女を選んだ。
世界から奪った熱を、今もなお少女へ注ぎながら、大樹は冬を終わらせない。
それでも少女は、
何も知らずに毎朝、大樹へ話しかける。
「おはよう、お母さん」
枝が静かに揺れる。
昔なら、それは風だった。
けれど今は違う。
少女はまだ知らない。
自分が大樹を母と呼び続けたことで、
「母」というものを知らなかった存在に、
「愛」を教えてしまったことを。
そして大樹も知らない。
愛することとは、
永遠に傍に置くことではない。
いつか、
その手を離すことでもあるのだと。
永遠の冬の中で、
母と娘はまだ、
それを知らない。