第1章:黒泥の神と凍える覚醒
午前五時。不快な電子音と、結露した窓から伝わる冷え切った自室の空気。社畜である「りょうすけ」にとって、出社前の僅かな時間に『ドラゴンクエストX』を起動し、不器用な手つきで人間・僧侶のキャラクターを操作することだけが唯一の生の実感だった。しかし、そのささやかな逃避行は一瞬で踏みにじられる。雨の帰り道、青信号の交差点。鼓膜を破る狂ったようなブレーキ音と、胸骨が背脊まで砕け散る鈍い感覚。喉の奥に溢れ出した生温かい鉄の味とゲロの混ざった臭いとともに、彼の意識は漆黒の黒泥へと沈んだ。 死んだ――そう確信した次の瞬間、彼は狂気と絶対的な威厳を孕んだ「ただ一人の神」の声を脳内で聞いた。そこは千切れた手足や臓物、無数の魂が混沌と渦巻く絶望の境界域。ある者は事故で肉体を潰され、ある者はベッドで眠ったまま神隠しに遭い、またある者は生きながらにして空間の歪みに呑み込まれていた。神は慈悲などではなく、腹を空かせた獣に餌を投げるような無慈悲な戯れとして、彼らを一つの世界へ投げ落としたのだ。
激痛とともに目を開けると、そこは視界を真っ白に染め上げる猛ふぶきの狂風の中だった。叩きつけるような氷片が頬を切り裂いて鮮血を散らし、刺すような冷気が肺の粘膜を瞬時に凍らせる。
「おい! 大丈夫か、しっかりしろ!」
視界の端、同じように氷の上で震えていたのは、細身の体躯に安物の鉄くずのような兜と長剣を刺した人間の男性――「ダイコン」だった。彼もまた、あくせく働いていた前世のさなか、不吉な神の悪戯によってこの極寒の地へ投げ込まれた「知らない転生者」の一人だった。
「俺はダイコン……戦士だ。わけが分からねえが、ここで凍え死ぬのは御免だぞ!」
死の恐怖に震えながらも、同じ境遇の者として互いに肩を借り合い、二人は立ち上がった。りょうすけは己の内に脈打つ「聖なる魔力」の不気味なほどの生々しさを感じ、ダイコンは拙い手つきで剣を握りしめる。見知らぬ極寒の地、右も左もわからぬ絶望の中で、二人は生き残るために手を取り合い、共に歩み出す絆を結んだ……そう思えたのは、ほんの一瞬の幻想に過ぎなかった。
突如、猛ふぶきの壁を破って現れたのは、巨木のような太さを持つ巨大な咆哮する陰影――アイスリザードの変異体だった。
「ひっ……!?」
悲鳴すら凍りつく。ダイコンが剣を抜こうとした瞬間、魔物の巨大な顎が彼の頭部から肩口までを丸ごと呑み込んだ。
「ガチリ」という生々しい骨の砕ける重低音。次の瞬間、ダイコンの首から下だけの肉体が、大量の赤黒い鮮血と内臓の泡を撒き散らしながら雪原へ崩れ落ちた。噴き出した温かい血と脳漿がりょうすけの顔面を真っ赤に染め上げる。
「あ……あ……」
言葉にならない叫び。ダイコンだった首無しの死体が痙攣し、魔物はその残躯を足で踏みつぶすと、肉と骨が破裂する不快な音を雪原に響かせた。仲良くなり、共に冒険を始めると思った矢先の、あまりにも呆気なく凄惨な死。転生先で待っていたのはファンタジーの冒険などではなく、肉と血が理不尽に踏みにじられる真の地獄だった。
崩れ落ちるりょうすけの前に、さらに数頭の魔物が群がる。指先を凍らせ、肺を焼き切りながら血を吐くような手つきで放った微かな淡光も虚しく、彼は暗黒の極寒へと倒れ伏した。

良かったらいいね宜しくお願いします。