子どもの頃、命の次に大切だった「コレクション」はありませんでしたか?私にとっては、ポ〇モンパンに付いていたシールでした。お気に入りのシールを下敷きにきれいに貼り、学校へ持って行っては、友達と見せ合ったり交換したりするのが何よりの楽しみだったのです。
しかしある日突然、その楽園は終わりを告げます。先生から「ポケ〇ンシールは勉強に必要ないので、持ってきたら没収します」と言われたのです。帰宅後、姉にそのことを話すと「どうせ、気の弱い子が不平等な交換を強いられて泣きついたか、誰かが盗んだりしたんだろう」と。
一部のトラブルメーカーのせいで、ルールを守って健全に楽しんでいた全員が巻き添えを食らう。子どもの世界で誰もが一度は経験する、理不尽な「一律禁止令」の瞬間です。
こうした禁止令の背景には、いつも大人たち、特に「母親たち」の影があります。少年にとって、シールのトレードは単なる遊びではありません。どれとどれなら価値が釣り合うか、どうすれば相手が納得するかを競う「交渉の楽しさ」であり、一種の社会勉強でもあります。しかし、母親という生き物は、往々にしてそういう少年のロマンや、泥臭い駆け引きの面白さには全く理解を示しません。だからこそ、トラブルが起きるとあっさりと「禁止」というカードを切るように見えます。
ですが、大人になった今、もう一つの真実に気づきます。母親たちが禁止令を望むのは、決して子どもの世界を壊したいからではありません。単純に「自分の子どもが損をするリスク」を、本能的に回避したいだけなのです。我が子が誰かに騙されて大切な宝物を奪われないように。あるいは、不条理なトラブルに巻き込まれて傷つかないように。一見、子どもの成長の機会を奪う冷酷な「禁止令」は、実は我が子を必死に守ろうとする、母親なりの歪みのない「愛」そのものだったのです。
しかし、話はここで終わりません。大人の視点からこのエピソードを見つめ直すと、さらに冷徹な事実が浮かび上がってきます。先生が言ったように、そもそも学校は、学習に関係のないものを持ってきてはいけない場所です。「下敷き」という文房具に隠すようにしてこっそりシールを持ち込んでいた行為は、いま思えば、法の抜け穴(グレーゾーン)を必死にくぐり抜けようとする、ずる賢い大人たちの縮図そのものでした。子ども側も決して無実の被害者ではなく、確信犯だったのです。
そして、学校の先生がそれを禁止する一番の理由は、単なるトラブル回避という綺麗事ではありません。本音を言えば「自分の責任になるのが嫌だから」です。万が一、シールの盗難や喧嘩が起きれば、貴重な時間を割いて対応に追われ、あげくの果てには親から「なぜそんなものを持ってこさせたのか」と理不尽に責められる。そんなリスクを背負わされるくらいなら、最初から「一律禁止」にして自分の身を守るのは、組織に生きる労働者として至極当然の防衛策と言えます。
「リスクを冒してでも、グレーゾーンを駆け抜けながら交渉を学びたい子ども」
「リスクをゼロにして、我が子を安全なカプセルで包みたい母親」
「リスクを完全に排除して、自分の責任を回避したい教師」
ここにあるのは、それぞれの立場における「自己防衛の衝突」です。そして悲しいかな、力関係によって、いつも大人側の「安全第一(責任回避)」が勝利します。この構造は、現在の大人社会と全く同じです。一部の不届き者や、自分で責任を取れないクレーマーのために、過剰なコンプライアンスや規制が作られ、全員の自由が奪われていく。私たちは子どもの頃からずっと、そんな「息苦しいリスクゼロ社会」の予行練習をさせられていたのかもしれません。
大人の防衛策は、確かに秩序を守ります。しかし同時に、失敗し、傷つきながら強くなっていくための「小さな社会経験」をも、きれいに消し去ってしまうのです。みなさんの子どもの頃には、どんな「グレーゾーン」と「禁止令」がありましたか?
そういえば昔、鉛筆と玩具を融合させた物が…おっと、だれか来たようだ。