黎明期のRPGはほぼすべて2Dスクロール。平面的な描写の中に世界観を構築したものですよね。その時代、開発環境もまた黎明期のものと言えますよね。
そうして当時の先進的なエッセンスをとりいれて誕生したRPGがDQ。
その簡易的でわかりやすい仕様が受けたのかと理解してますが、そうして一大シェアを獲得、一躍RPGのスタンダードとなり、国内ゲーム機の普及に一役を担い、業界全体を牽引するまでに…。
そこでヒット要因を探りだした人たちが「こうしないとヒットしない」という「観念的な図式」をつくりあげた…と。そこまでは想像に難くありません。以降、商業的なスタンスは業界の力関係に大きく影響してゆくことに…。
「成功方式」という「幻想の刷り込み」。それは学歴主義を支える進学教育などとも一致するかな。
ゲーム業界はアイデアと実行力がものをいう<群雄割拠する世界>かにも思うのですが、そこにも一定に「新進気鋭に対する阻止力」が力をもってその配分を決定すると。それは資本派閥との癒着のもとに生まれますね。
この二つはセットでどの業界にも”つけもの石”として存在してる。それが停滞感の源泉。
当時のUIシステムは当然ながら限定されたプラットフォームとデヴァイスを手にする最大公約的人々に向けられて設計開発されたものと思います。それは平面描写にマッチすべく採用されたものだったかもしれませんが、その時から比べて随分環境は違ってきてるはずですね。
論点はこの点に限られますが、つまり形式に固執して方向性として見誤ってる部分はないのかということ。
かつて栄華を誇った一時代があったとしても今に直接関係しない訳で。一強時代を示す規格や意匠が過去深く浸透したとしても、その価値に対する評価も変わる。かつての評価への固執は新たな時代で適応を欠くだけと思います。「よりよいものを」という姿勢を妨害する態度にしかならない。
ともかく今あるコマンドの序列は変え時かなぁと。
前世代から使い古されてきたシステムに良いものがあるのはわかりますが、新たな提案が噴出する中においても、尚もそのままこの先も根底を支えていこうとするのはどうにも歪な感じが。
ヒット要因はひとつの時代のシステムが優れていた…のではなく「当時の適正」(先進性と先見性)がもたらした勝利だと思いますね。
そして<勝手都合な解釈でいくらでも飾りつけが可能>な世界観。
そこに掘り下げられるディティールがあるようには感じません。どの作品にも見られるファンタジーライクなテイストは、モチーフ元となるオリジナルは別途存在すると理解してます。一部論拠も行方しれずの概念もわたしたちに地続きの反応をもたらします。でもそれは日常生活の範疇に収まる些細なもの。ファンタジーの本質は一般には”万人の語る解釈の世界”とだけ認知されてるのかもしれません。
そうした二次的活用しか見いだせない漫然な土壌ゆえ、ファンタジーは創作物に都合よく拝借がゆるされてしまうのかもしれません。それは外見だけの「真実を守るために存在するでもないただの虚構」です。
またDQはポケモンに先駆けてファンシーキャラ路線にのったことも商業的ヒットの要因だったかもしれません。
そうした世界は難解な解釈に網羅されていますから一般には難解です。だからこそ引きつけられる人が後を絶たないのでしょうがDQはそこで受け入れやすさを優先し、何かを犠牲にしたはず。
ファンタジーが単に多様な解釈が許された世界のように思われてるとしたら、そこに貢献してきた可能性はあるでしょうね。ヒット作の宿命とも?他の事に例えれば「電子楽器で作った楽曲がなべてみなテクノだ」と言ってしまう感じ。
DQに影響を受けたというのは、それはゲーム音楽からの刺激だったり、日常よく読むマンガに通じた感性の発見だったり、自分と通じあうものを見つけたときの安らぎからくるのかもしれません。それをファンタジーの影響と言うのは違うかな。
二次創作物からの多数の混入も許容されたものをなべてファンタジーというのは、なんて骨のない修辞飾一色な浅薄な世界だろうと思います。
長く続いた単行本の終盤付近を見ると、何を大事にしてるかわかりますよね。
どの部分で成立をみてきたか…ということですね。先入観を外して見れば作品継続してく上で不可欠な部分がどこかはわかるかと思います。
MMOは時間の猶予が続く限り、何度も同じことを繰り返す中でよけいなものをそぎ落としてよりよいものが生まれていくものと認識していたのですが。
定義はともかく人の理屈を超えない範疇で語られる事はファンタジーという気がしないのは私も同じです。蓋を開けてみれば単に教条主義的な説教の詰め合わせだった…て作品には関わりたくないw