『八千時間の瞬き、お魚さんと私の歩いた道』
「八千八百二十七時間、三分。……あはっ、数字で見ると、なんだか笑っちゃうね」
静まり返ったお庭で、私はメニュー画面の端に刻まれた数字をそっとなぞった。二〇一四年三月七日。あの日、初めてアストルティアの土を踏んだ時の土の匂い、見上げた空の青さを、今でも肌が覚えている。
「光陰矢の如し……か。本当、あっという間だったね、お魚さん」
画面の中の私は、あの頃よりずっと逞しく、けれど変わらない瞳で私を見返してくる。記憶の引き出しをそっと開ければ、そこには真っ白な法衣を纏い、震える手でスティックを握りしめた「はじめての僧侶」の私がいた。
『死なせないから! 私が、みんなを絶対に守るから!』
あの時の必死な叫び。誰かのHPゲージが赤く染まるたび、胃を雑巾のように絞られるような痛みを感じて、コントローラーを握る指先はいつも冷たかった。ADHDの私が、次々に変わる戦況と、流れるログの文字情報を必死に追いかけ、泣きながらベホマラーを唱えた日々。文字が躍って見えて、ギミックの解説を読んでも理解できず、仲間を死なせては「ごめんなさい」と画面の前で頭を下げた。
「あの頃の胃の痛みも、流した涙も……全部、今の私の血肉になってるんだよね」
ふわりと、影の深底に漂う毒々しい霧の香りが鼻をくすぐったような気がした。今は、あの妖艶で凶悪な「堕天のメイス」を前にしても、「おめぇ、強ぇじゃねぇか!」と笑える強さを手に入れた。ブラックパールの冷たい輝きも、バザーで★2の防具が一つも売れなくて独りぼっちで耐える夜の寒さも、すべてが私の「もう一つの人生」の彩り。
「転売はオーケーなのにね。なんで私の防具は、あの子たちの目に留まらないんだろう」
自嘲気味な独り言。でも、その切なささえも愛おしい。リアルな世界で生きづらさを抱える私が、ここではお魚さんとして呼吸をし、戦い、誰かと笑い、絶望して、また立ち上がる。八千時間を超える歳月は、ただの「ゲームの記録」じゃない。私が私として、泥臭く、けれど懸命に生きてきた証。
「け・せら・せら。なるようになる……ううん。なるようにしてきたんだよ、私たちが」
私は「いただきます2」のしぐさをした。目の前のグルめぐり机には、これまでの苦労が結晶となったようなご馳走が並んでいる。
泣いたり、笑ったり、胃を痛めたり。
不器用で、けれど愛おしいこの世界で、私は明日もまた、新しい一分一秒を刻んでいく。
このお魚さんと共に、私だけの物語を紡ぎ続けるために。