ヴェリナードの空を彩る魔法の残り香か、あるいは誰かが焚いた香炉の煙か。鼻をくすぐる甘く懐かしい香りに誘われるようにして、私は「みるくの老人ホーム」の柔らかな光の中にいた。
「……138、か」
手元のステータス画面に躍る数字は、私の困惑を置き去りにして、これ以上ないほどの輝きを放っている。経験値の通帳という、なんとも世知辛くも便利な代物のせいで、私は一度もタロットをシャッフルすることなく、この道の極みに立ってしまった。指先で触れるタロットカードは、使い込まれた気配もなく、新品特有の硬いエッジが肌に冷たく刺さる。
「死神って、何をするカードだっけ? 太陽を引いたら、何が起きるんだっけ……?」
自分でも呆れるような自問自答が、喉の奥で乾いた音を立てる。本来なら、幾多の死闘の中でカードの重みを知り、運命を切り拓く感覚を指先に覚え込ませるはずだった。けれど今の私にあるのは、膨大な数字の後ろ盾だけ。実力という芯が抜けた、ふわふわとした綿菓子のような万能感だ。
視線を上げれば、老人ホームの庭には、どこか浮世離れした穏やかな時間が流れている。青白く発光する樹々が、微風に揺れてサラサラと氷細工のような音を奏で、頬を撫でる空気はどこまでも穏やかで、戦場の血生臭さとは無縁だ。
「いいじゃない、最高レベル。立派なもんですよ」
誰かのそんな声が聞こえた気がして、私は自嘲気味に口角を上げた。 かつては「あかつきの神兵」を相手に、鉄の匂いと汗の熱気にまみれて盗みを働いていた私が、今やカードの使い方も知らぬ「最高レベルの占い師」。この圧倒的な「中身のなさ」が、なんだか無性に可笑しくなってくる。
背負っている大剣の重み、スパイクアーマーの冷たい感触。それら「物理」の確かな手応えに比べ、この「占い師」という称号のなんと軽いことか。 でも、これもまた私らしい冒険の形なのかもしれない。ADHDの衝動のままに突き進み、勢いで530万Gを溶かしたかと思えば、戦わずして頂点に君臨する。人生もアストルティアも、理屈通りにはいかないからこそ面白い。
私はまだ、タロットの組み方を知らない。でも、この老人ホームに流れる安らかな光の中で、ゆっくりとカードを眺める時間があってもいいはずだ。 最高レベルの景色は、思いのほか静かだった。 足元の雪のような白い地面を踏みしめると、サクッという確かな音が返ってきた。その感触だけを頼りに、私は運命という名の、まだ見ぬデッキを構築し始める。

おはようございます。