薄暗い社(やしろ)の奥、鏡を磨く巫女の指先が、突如として不思議な文様が描かれた黒い板――コントローラーへと滑り込んだ。
「……ほう。これが、未来の民が興じる『あそび』というものか」
卑弥呼は、祭壇に置かれたモニターを覗き込んだ。冷え切った空気の中に、電子の光が青白く爆ぜる。画面の中には、自分によく似た、けれどどこか自由奔放な顔立ちの少女が立っていた。エルトナの風に吹かれ、ピンク色の髪がさらさらと揺れている。
「風の匂いがせぬな。だが、この耳に届く笛の音は……カミの住まう高天原のそれにも似て、心に沁みるではないか」
彼女は慣れない手つきでスティックを倒した。キャラクターが草原を駆け出す。草を踏む音、川のせせらぎ。それらが耳朶を叩くたび、卑弥呼の胸には、女王という「仮面」の下に隠していた幼い好奇心が、ぷつぷつと泡を立てて湧き上がった。
「難升米(なしめ)よ、見ておるか。この国には、戦などどこにもない。誰もが笑い、着飾った服を競い、見知らぬ者同士が手を振っておるぞ」
不意に、画面の向こうで他プレイヤーから『いいね!』が飛んできた。卑弥呼はびくりと肩を揺らす。
「な、なんだ? 今、私を光が包んだぞ。刺客か? それとも、私に平伏しておるのか?」
戸惑いながらも、相手のキャラクターがぴょんぴょんと跳ねるのを見て、彼女の口元がわずかに綻んだ。
「ふふっ。言葉を交わさずとも、この心の弾みは伝わるものよ。魏の皇帝に謁見したときよりも、よほど心が熱うなるわい」
彼女は、自分を「神の依代」と偽り、孤独な宮殿で一生を終える運命にいた。けれど、この世界では、彼女はただの『冒険者』だ。誰かに畏れられることも、重い吉凶を占う必要もない。ただ、目の前の青空に向かって走ればいい。
「この『まいたうん』という場所は良い。私が夢に見た、争いのない常世の国そのものではないか。みるくという者の庭か……。この蒼い光、氷のような冷たさを湛えながら、なんと慈悲深い輝きよ。肌に触れる光の粒が、私の乾いた魂を潤していくようだ」
モニターの光が、卑弥呼の瞳に映る涙を宝石のように輝かせた。彼女は深く、深く、現代の空気を吸い込むように息を吐いた。
「よし、決めたぞ。今日はもう神託など下さぬ。カミもたまには休みたいであろう。私はこの地で、一人の女として、夜が明けるまでこの景色を味わうことにする」
卑弥呼は、黒い板をぎゅっと握りしめた。そこには、古代の女王が片時も手放せなかった「鏡」よりも、ずっと鮮やかに、彼女が本当に守りたかった「人々の笑顔」が映し出されていた。
「ありがとう……この出会いに、心からの感謝を。さあ、次はどの風に吹かれようか」
伝説の巫女の指が、軽やかに、そして弾むように、新たな未来のボタンを押し込んだ。