鏡合わせの雨水、ランプの火影に祈りを
二月十八日。窓を叩く雨音はどこまでも優しく、庭の白梅と紅梅から溢れた雫が土を湿らせていく。ひまりは座椅子の背もたれに深く体を預け、モニターの光の中にいた。
「……ねえ、みるく。今日はもう、頑張るのやめにしよっか」
ひまりがそう呟くと、画面の中の**『みるく』**が、ふっと微笑んだような気がした。
ひまりと、みるく。
一人は、スウェット姿で「億り人」を夢見て、少し疲れ果てた現実の自分。
もう一人は、天界の光を浴び、誰もが息を呑むような神グラフィックを纏った、理想の自分。
この狭い子ども部屋において、二人は鏡合わせの存在だった。
「本当に、このエフェクトはずるいよね……」
ひまりは、マウスを握る右手の力を抜いた。
みるくが立っているピラミッドの回廊。幾何学的なクリスタルの屋根を透過した蒼い光が、みるくの透き通るような肌をなぞり、背後の魔法の扉からは「シュィィン」と高く澄んだ音が、雨音に混じって響く。その色彩は、冬の薄氷が春の陽光に溶け出す瞬間のようで、見つめているだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ひまり、いつまで画面見てるの。お昼は岩海苔の温かいお味噌汁だよ」
階下から届く母の声は、現実の重力。
けれど、ひまりの意識はまだ、みるくと共に春の水のようにキラキラと光るデジタルな空を漂っていた。
「わかってる。……でも、もう少しだけ。みるくと一緒に、この景色を見てたいの」
ふと、画面の隅に目を向けると、かつて夢見た「億り人」の称号はまだ遠く、ランプを回すためのゴールドも心許ない。春浅しこの季節と同じように、ひまりの懐(ふところ)はまだ真冬のまま。庭先の山椿が潔く花を落とすように、いっそすべてを諦めてしまえたら楽なのに、と弱気が顔を出す。
けれど、みるくの凛とした立ち姿、その瞳に宿る吾妻菊のような不屈の光が、ひまりの背中を静かに押した。
「……そうだよね。あんたをこんなに綺麗にしてあげたのは、私なんだもんね」
ひまりは、キーボードに添えた指先に少しだけ力を込める。
窓の外では、東風が雨を運び、春を急かしている。冷たい寒月が昇る夜が来ても、この画面の中には、自分だけの「聖域」がある。
「よし、お昼食べて元気出したら、また戻ってくるよ。みるく、その時は……最高のランプを回して、一緒に『億』の扉をブチ破ろうね」
ひまりは、愛しい分身(メインキャラ)に向けて小さく手を振った。
画面の中のみるくは、オーロラのような光のエフェクトに包まれながら、静かに、けれど力強く、ひまりの帰りを待っている。
「お母さーん! 岩海苔、お代わりある!?」
部屋の電気を消した。
真っ暗になったディスプレイに一瞬だけ映ったのは、少しだけ前向きな顔をした、もう一人のひまりの表情だった。