僧侶レベル140
六月の蒸し暑い夜だった。私はパソコンの前で小さく息を吐き、冷めた麦茶をひと口飲んだ。机の端には食べかけの塩せんべいが三枚、読みかけの文庫本の上には老眼鏡が伏せてある。薄い水色のTシャツにゆったりしたズボンという家着姿のまま、今日もいつものように冒険を続けていた。長く遊んできた世界だから、もう急ぐ理由なんてないと思っていたのに、経験値の数字が増えるたび、なぜか胸の奥がそわそわする。
画面の向こうでは、仲間たちがいつものように敵を倒していた。回復呪文を唱え、倒れそうな仲間を助け、地味だけれど大切な仕事を繰り返す。窓の外では雨上がりの風がカーテンを揺らし、洗濯物の柔軟剤の匂いが部屋に漂っていた。私は右手でマウスを握り、左手で無意識に髪をかき上げる。緊張するとそうする癖は昔から変わらない。
そして、突然その瞬間は訪れた。
「僧侶のレベルが140になった!」
画面いっぱいに表示された文字を見た私は、しばらく瞬きもできなかった。何年もかけて少しずつ積み重ねてきた数字が、とうとう最後まで届いたのだ。嬉しくて立ち上がったものの、誰もいない部屋なので拍手するのも照れくさい。結局、キッチンへ行って冷蔵庫を開け、昨日作ったきゅうりの浅漬けをぽりぽり食べながら、またパソコンの前へ戻った。
「やったあ」
誰に聞かせるわけでもない声が、静かな部屋にぽつりと落ちた。
私は画面の中の僧侶を眺める。華やかな職業ではない。敵を一撃で倒すわけでもないし、派手な演出があるわけでもない。それでも、仲間が危なくなると真っ先に回復し、誰かが倒れれば蘇生し、みんなが安心して戦えるように後ろから支える。そんな役目が、昔から好きだった。
ふと、始めた頃のことを思い出す。操作を間違えて壁に向かって走ったこと。強い敵に怯えて町から出られなかったこと。知らない人に回復をしてもらい、
「大丈夫ですよ」
と声をかけられて、画面の前で何度も頭を下げたこと。
あの頃の私は、まさかここまで続けるなんて思っていなかった。
時計を見ると夜十一時を過ぎていた。そろそろ寝る支度をしようと思いながらも、私はすぐにはログアウトしなかった。ベッドの上には畳んだパジャマが置いてあり、窓際の観葉植物には今朝あげた水がまだ少し残っている。生活は相変わらず慌ただしく、忘れ物も多いし、失敗だって山ほどある。それでも今日は、画面の中の小さな僧侶が、
「ここまで来たよ」
と胸を張っているように見えた。
私は笑いながら、もう一度だけその姿を見つめた。
「ありがとう。次は何して遊ぼうか」
答えはまだない。でも、続きがあると思うだけで、明日の朝の麦茶は少しだけ美味しくなりそうだった。