カンストのその先
夕方の風が網戸を揺らしていた。私はパソコンの前に座り、湯気の立つインスタント味噌汁をすすりながら、キャラクター情報の画面をじっと見つめている。白いブラウスに紺色の部屋着のズボン、足元には脱ぎっぱなしの靴下が片方だけ転がっていた。テーブルの上には麦茶、食べかけの塩せんべい、そして買ったばかりの茄子が新聞紙に包まれたまま置いてある。
戦士、僧侶、魔法使い、武闘家、盗賊。ずらりと並んだ職業の横には、きれいに「140」の数字が並んでいた。旅芸人も、バトルマスターも、天地雷鳴士も、海賊も、ガーディアンもみんなカンストしている。
残るは竜術士130。
隠者122。
私は画面に向かって、うーんとうなった。
「ねえ、もぐもぐちゃん」
隣にいる灰色の相棒に話しかける。
「もう私、十分頑張ったと思わない?」
もぐもぐちゃんはむすっとした顔でこちらを見ている。
もちろん返事はない。
でも、今日は、
「まだだ」
と言われている気がした。
「えー」
私は椅子の背にもたれた。
昔は違った。
一つレベルが上がるだけで飛び跳ねて喜んでいた。
初めて僧侶になった日。
初めて魔法使いでメラミを覚えた日。
酒場で知らない人に誘われて、緊張しながら迷宮へ行った日。
強いボスに全滅して、
画面の前で悔しくて泣きそうになった日。
その頃は、
レベル140なんて、
遠い遠い夢だった。
なのに今は、
ほとんど全部カンストしている。
私は画面をスクロールした。
未使用スキルポイント。
156。
127。
200。
180。
数字がいっぱい並んでいる。
なのに、
なんだろう。
少しだけ、
ぽっかりしている。
「先生」
頭の中で、真昼の声がした。
「夢って叶ったあと、どうするんですか」
私は笑った。
そうだ。
夢を叶えるのは、
案外あっさり終わる。
問題はそのあとだ。
律ならきっと言う。
「飯食って寝ろ」
って。
私は冷めかけた味噌汁を飲み干した。
わかめが少し歯にはさまる。
台所では洗っていない茶碗が二つ。
明日洗えばいい。
窓の外では、近所の子どもが、
「やったー!」
と叫んでいる。
たぶん、
自転車に乗れたのだろう。
何回も転んで、
膝を擦りむいて、
それでも乗れるようになったのだ。
私はふと思った。
私も、
何回転んだんだろう。
ボスに負けた。
お金をなくした。
職を間違えた。
宝珠を集め忘れた。
海賊がカンストしたのに裸だった。
思い出して、
ひとりで笑ってしまう。
「ほんと、何やってんだろ」
もぐもぐちゃんは相変わらずむすっとしている。
なつき度は八。
五回転生しても八。
でも、
まあいいかと思った。
なつき度が十になったら終わりじゃない。
竜術士が140になったら終わりでもない。
隠者がカンストしたら、
また新しい職が来る。
また覚えられない呪文が増える。
また宝珠を集める。
また失敗する。
それでいい。
ゲームって、
人生って、
完成しないから続けられるんだ。
私はキーボードに手を置いた。
「よし」
「今日は竜術士やろう」
すると、
画面の隅でもぐもぐちゃんが、
ほんの少しだけ、
胸を張ったように見えた。
私は笑う。
窓の外はもう夕焼けだった。
レベル140がずらりと並ぶ画面は、
昔の私が見たら、
きっと信じないだろう。
でも今の私は知っている。
カンストは終点じゃない。
ちょっと遠くまで歩いてきたね、と、
自分を褒めるための、
小さな休憩所なのだ。