凍った心
みるくは夜が明ける前に目を覚ました。ガウシア樹海の薄暗いキャンプ地には冷たい霧が立ち込め、魔界特有の紫色の炎が魔導炉の下で静かにくすぶっていた。彼女は愛用している白いドレスの裾についた泥をはらい、道具鞄から取り出した銀の時計を見ると、予定していた遠征の時間よりも一時間も早い。昨夜はバザーの取引帳面を読んでいる途中で眠りについたが、眠りは浅く、目を閉じるたびに暗い水面から現れたネオケラトドゥスの鋭い銀色の魚影が浮かんできた。足元には、夕食として用意したアジの開きが手つかずのまま残っていた。脂は白く固まり、添えられた干からびた薬味も皿の縁へ張りついている。みるくは食欲を感じなかったが、冷めたお茶だけを一口読み、顔をしかめた。子どもの頃、港町レンドアの釣り老師は冷めた茶を口にするたび、「まずいものを黙って飲むのは立派な職人ではない」と笑っていたが、その声も今ではずいぶん遠くなっていた。経験値を稼いで釣りレベルを上げれば周囲の人間は一流だと褒めてくれたが、一度でも大物をバラせば、彼らはすぐに手のひらを返して未熟だと囁き合った。誰かを信じて裏切られるくらいなら、初めから孤高の釣り師として距離を置いたほうがよい。その考えを何度も繰り返すうち、人の善意まで疑うことが習慣になっていた。
旅人バザーの商人が、朝の報告書を持ってテントに入ってきた。灰色の上着を隙なく着込み、眼鏡の奥には、すでに一日の仕事を始めている者の目があった。手には高騰している職人素材の価格表と、新しく届いた手紙が三通載せられている。
「お目覚めでしたか。朝食は近くの酒場へご用意いたします。」
「ここでいい。」
商人は手つかずのアジの開きへ一度だけ目を向けた。何か言いたそうに口を開きかけたが、結局は価格表を机へ置いた。みるくはその様子を見て、また心配を装って高価な道具の買い替えを勧めるつもりかと考えた。
「何だ。」
「いえ。今朝は白パンと卵、それに林檎の煮たものをご用意しております。」
「食べるかどうかは私が決める。」
商人は静かに頭を下げた。みるくは自分の言い方が必要以上に冷たかったことに気づいたが、謝る言葉は出なかった。
朝食が運ばれると、みるくは白パンを半分だけちぎった。黄身の柔らかい卵へ塩を振り、林檎の煮たものには匙をつけなかった。商人は予定表を読み上げながら、午後の遠征先について確認した。
「ガウシア樹海の共同井戸の近くで、またネオケラトドゥスの目撃報告がございます。本日、トゲトゲルアーを新調して向かわれますか。」
「★2のルアーで十分だ。」
「先月も★2をけちった釣り師が、くいつき度を削られて大物を逃しておりました。」
みるくは卵の殻を匙の先で砕いた。バザーの報告書では立派な数値が並び、実際の現場では荒ぶる魔界の魚が待っている。どうせまた道具屋が自分の取り分を増やそうとして★3を勧めているのだろうと思うと、朝から胃の奥が重くなった。
「分かった。自分で確かめる。」
商人は予定表へ印を付けた。
「では、昼前に出発いたします。」
「護衛は少なくていい。大勢で行けば、気配で魚が逃げる。」
みるくは残った白パンを皿へ戻した。明るい言葉を口にする者ほど、裏では別の顔を持っている。自分は何度もそれを見てきた。
「どうせ、また逃げられる。」
無意識にそうつぶやくと、商人のペンが一瞬止まった。みるくはその視線を感じたが、何も言わず冷めたお茶を飲み干した。