総帥Yへの教科書がない
東京には朝から熱中症アラートが出ていた。窓の外では道路の向こう側が白く揺れ、エアコンを十八度に設定しているのに、みるくの首筋には汗が浮かんでいた。薄い灰色のTシャツは背中へ張り付き、黒いハーフパンツの裾をぱたぱた動かしても涼しくならない。冷蔵庫には昨夜買った豆腐ときゅうり、それから半分だけ残ったスイカが入っていたが、台所に立つだけで顎や鼻から汗がしたたり落ちるため、昼は冷奴と梅干しのおにぎりで済ませることにした。
「まだ火も使ってないのに、どうしてこんなに暑いの。」
皿へ豆腐を移し、刻んだみょうがをのせるだけで、首に巻いたタオルは重く湿った。麦茶のコップにはすぐ水滴が浮かび、テーブルの上へ小さな輪を作っている。食べ終えたあと、みるくは扇風機を自分のほうへ向け、パソコンの前へ座った。防衛軍の実績は百三十、総帥Yまであと二十だった。
数字だけなら、ずいぶん遠くまで来たように見える。けれど、戦闘を終えるたび、みるくの中には何も残らない日があった。仲間について走り、敵を攻撃し、気がつけば防衛成功の文字が出る。それでも、なぜ鐘を先に壊したのか、なぜ大砲を今使ったのか、自分が何をすべきだったのか分からないままだった。
「怖いのは、失敗することじゃないんだよね。」
みるくは濡れた指先をTシャツで拭き、角の折れたメモ帳を開いた。
「何も学ばないまま、クリアし続けることなんだ。」
仕事でも同じだった。周りが優秀なら、意味を理解しなくても一日は終わる。先輩のまねをして、言われたことをして、問題が起きなければ誰も止めない。けれど一人になった瞬間、何を見て、何を考えればいいのか分からなくなる。防衛軍も八人で戦うから、自分が迷っていても誰かが埋めてくれる。その親切が、ときどき自分の未熟さを見えなくした。
みるくは攻略情報を探したが、防衛軍だけを語り合える場所は見つからなかった。これほど長く、職業ごとの役割も敵ごとの判断も違うのに、専用のカテゴリーがない。先輩が何を見て動いているのか、失敗したときに何を直したのか、気軽に聞ける教室がないのだ。
「だから、分からないままなんだ。」
扇風機の風でメモ帳の端がめくれた。みるくは新しいページへ、「今日は大砲を撃つ人の動きを見る」と一行だけ書いた。全部を覚えることはできない。それでも一戦につき一つなら、持ち帰れるかもしれない。
外では救急車の音が遠くを走り、台所の流しには冷奴の皿が残っていた。みるくは麦茶を飲み干し、防衛軍の受付へ向かった。今日は実績を一つ増やすためではない。昨日まで分からなかったことを、一つだけ分かるようになるためだった。