あの日
2014年3月7日。
「やらないってば。」
湯船につかって肩まで温まり、今日は早めに寝ようと思っていた。浴室には石けんの香りが広がり、鏡は白く曇っている。すると突然、ガラッと風呂場のドアが開いた。家族が当たり前のような顔で入ってきて、目を輝かせながら言う。
「ねえ、ドラクエやろう!」
「ちょっと! なんで入ってくるの!」
「絶対楽しいから!」
「だから、やらないって言ってるでしょう!」
何度断っても引き下がらない。その日は風呂場の中まで勧誘に来た。あまりの勢いに笑ってしまい、「一回だけだからね」と折れたことが、すべての始まりだった。
二〇一四年三月七日。風呂から上がり、髪をタオルで拭きながら小さな部屋のパソコンの前に座る。テーブルには湯気の立つインスタントコーヒーが一杯置かれ、窓から差し込む春の柔らかな光がキーボードを照らしていた。画面の中で初めてアストルティアに降り立ち、私は僧侶を選んだ。白いローブ姿が思った以上にかわいらしくて、それだけで少しうれしくなる。歩き方も戦い方も分からず、カメラはあちこち向いてしまう。それでも家族が横で笑いながら操作を教えてくれ、一歩進むたびに新しい世界が広がっていった。
あれから十二年。天地雷鳴士というお気に入りの職業も生まれ、防衛軍では総帥Yまでたどり着いた。プレイ時間は九千二百五十時間を超え、今日も「やっぱり天地で遊びたい」と思いながらアストルティアを走っている。一回だけのつもりで始めたゲームが、人生でこんなに長い付き合いになるとは、あの日の私は想像もしなかった。
そして、あの日、風呂場まで押しかけて「一緒にやろう」と笑っていた家族は、このゲームで出会った人と恋をして結婚した。画面の中で交わした「よろしくお願いします」が、やがて現実の「よろしくお願いします」へとつながり、今も二人は幸せに暮らしている。ゲームはレベルや装備だけを積み重ねる場所ではなかった。人との出会いが人生を動かし、思いがけない未来を運んでくる場所でもあった。
写真は一枚も残っていない。それでも、曇った浴室の鏡、突然開いた風呂場のドア、「絶対楽しいから」と笑う家族の声、初めて袖を通した僧侶の白いローブ、そのすべてが今も心の中では鮮やかなままだ。あの日は、ただゲームを始めた日ではない。十二年分の冒険と、一つの結婚、そして今も続く数え切れない思い出が、静かに動き始めた特別な一日だった。