異世界転生したのに説明書が読めません
夜中の部屋で、みるくは薄い水色のTシャツに灰色のステテコをはき、不思議の魔塔の画面を見つめていた。冷房は十八度に設定してあるのに、首の後ろには汗がたまり、散らかった机の上では麦茶の氷がすっかり溶けている。武器、装備、錬金、進化、耐性、スキルと、魔塔には覚えることが次々に現れ、バーチャルの世界へ異世界転生させられた気分だった。異世界転生なら女神が特別な能力をくれるはずなのに、みるくが授かったのは、同じ説明を三回読んでも毎回違う意味に見える能力だった。
「女神様、せめて検索ワードを一個ください」
何を理解できていないのかが分かれば、それについて調べられる。しかし、みるくには何が分かっていて、何が分かっていないのか、その境目さえ見えなかった。検索欄を開いても「不思議の魔塔 なんかよく分からない」と入力するしかなく、それでは攻略サイトの人も困るだろう。以前、別のゲームに三か月もこもったことを思い出し、あの頃も遊びたかったというより、分からないまま終わらせるのが気持ち悪かったのだと気づいた。
「三か月の修業で得たものは、肩こりと大量のスクリーンショットでした」
胃がきりりと縮んだので、みるくはコントローラーを置いて台所へ向かった。冷蔵庫から使いかけの大根を出し、鍋にご飯と水を入れ、細く切った大根と乾燥わかめを加えた。大根を切っている途中で包丁を洗い、洗った理由を忘れてもう一度洗ったが、鍋から立つ湯気には磯の匂いが混じり、部屋の空気を少しだけ丸くした。卵を落とすか迷ったものの、胃にやさしい夜食にしたかったので、そのまま塩をひとつまみ入れた。
「これはおじやです。決して、味の薄い海ではありません」
大根とわかめのおじやを食べながら、みるくは窓の外を見た。満ちていくバックムーンにはまだ早く、雲の向こうの月も、今夜は攻略の答えを教えてくれそうになかった。それでも七月二十九日水曜日の午後十一時三十六分頃までには、魔塔の半分を終わらせたい。目標を書いた帳面には醤油の小さな染みがあり、その横で「半分」の「半」の字が二度書き直されていた。
「人って、なかなか変われないね。でも大根は煮たら変わりました」
みるくは箸で透き通った大根を持ち上げた。最初は硬かった大根も、弱火にかけているうちに、歯を立てなくても崩れるほどやわらかくなっている。人間も急に別人にはなれないが、分からない画面を一枚ずつ写真に撮り、「これは何をする場所か」と一問ずつ調べることならできそうだった。みるくは食器を流しへ運び、洗濯機の上に置きっぱなしだった靴下を一足だけ畳んでから、再びゲームの前へ座った。
「今夜は世界のすべてを理解しません。次に押すボタンだけ理解します」
画面の中のみるくは、相変わらず魔塔の途中に立っていた。装備の仕組みも錬金の材料も完全には分からず、異世界転生者を案内する親切な賢者も現れなかった。それでも現実のみるくの胃には温かいおじやが入り、帳面には次の一手が大きな字で書かれている。人はなかなか変われないからこそ、みるくはいつもの自分を連れたまま、一階ずつ上へ進むことにした。
「勇者みるく、胃薬を装備して再出発します」