削除ボタンは明日もそこにありましゅ
八回目の床ペロから戻ったみるくは、キャラクター選択画面を開き、削除に関係する項目をじっと見た。橙色のワンピースを着た小さなみるくは、何も知らない顔でこちらを向き、肩には何年も使ってきた杖を背負っている。レベル六十五まで上げても四十階のブーネイに倒され続け、横へ逃げても大地裂きが届くのだから、キャラクターもIDもまとめて消せば、二度と床をなめずに済む。みるくの親指は決定ボタンの上へ載り、しばらく動かなかった。
「全部消したら、ブーネイにも勝てない代わりに、ブーネイもみるくを倒せなくなりましゅ。完全な引き分けでしゅね。」
そのとき、台所の電子レンジが鳴った。夕食の鶏肉と夏野菜のカレーが温まり、ナス、ズッキーニ、赤いパプリカの匂いが部屋へ広がった。みるくは薄い水色の半袖シャツへ着替え、冷蔵庫から福神漬けを出し、削除画面を開いたまま食卓へ座った。一口食べると、辛口のルーより、ボタンを押す直前まで力を入れていた右手の親指のほうが熱を持っていた。
「キャラクターを消す前に、カレーを消すのでしゅ。こちらは明日まで残すと鍋に匂いが付きましゅからね。」
食べながら、みるくはそのキャラクターが持っているものを数えた。まもの使いの特訓スタンプは二万七千個あり、混乱、マヒ、即死、魅了、呪い、転び、踊りの七耐性を百パーセントまでそろえていた。わかめ王子・強から人魚の涙を盗み、間違えてビッグファングを五匹呼び、紫竜の煌玉と幻界王の首かざりを理論値にした。フォルネーを倒したときの「やったー」という声まで、画面の中から一緒に削除されることになる。
「ブーネイ一匹のために、ワニ五匹とわかめ軍団とリーネさんの奇跡まで解雇するのは、人員整理が乱暴すぎましゅ。」
食後、みるくは削除画面を閉じ、ログアウトを選んだ。削除はいつでもできるが、八回負けた直後の頭へ、何年分もの冒険を処分する権限まで渡す必要はない。机には白湯のカップ、使いかけの胃薬、魔塔の攻略帳が並び、椅子の背には乾いたタオルが掛かっていた。みるくは攻略帳の「九回目」の欄を横線で消し、その代わりに「本日は閉店」と書いた。
「消すのはキャラクターではなく、今日の予定でしゅ。ブーネイさんには、無期限の面会謝絶を申し渡しましゅ。」
夜になり、ゲーム機の明かりが消えると、部屋には冷房の音だけが残った。みるくはカレーの皿を洗い、南国の家で撮った鳥の写真をスマートフォンに表示した。明日になっても消したいなら、また考えればよいが、今夜の仕事は胃と親指を休ませることだった。布団へ横になったみるくは、ブーネイより先に眠る準備を整え、画面のない天井へ向かって言った。
「削除ボタンは明日もそこにありましゅ。でも、今日のみるくには押させましぇん。」