霧の森と迷子のこびと
八月十九日の朝、みるくが宿屋の窓を開けると、町は白い霧に包まれていた。今日は七十二候の「蒙霧升降」、深い霧が立ち込める頃である。みるくは薄桃色のブラウスに紺色のキュロットを合わせ、湿った草を歩けるように茶色の編み上げ靴を履いた。食堂では焼いた丸パンに蜂蜜を塗り、半熟卵とキュウリの塩漬けを食べたが、出発を急いだせいで、温めてもらった豆乳を半分残してしまった。
「森へ薬草を採りに行くなら、今日はやめたほうがいいよ」
宿屋のおかみが、洗濯した布巾を椅子の背に掛けながら言った。みるくは窓の外を見たが、向かいの道具屋の看板さえ、白い霧の向こうでぼんやり揺れている。それでも熱を出した子どもに届ける薬草は、昼までに必要だった。
「大丈夫。鈴を鳴らしながら歩くから、迷わないよ」
森へ入ると、霧は冷たい布のように頬へまとわりついた。濡れた土の匂いが強く、木の葉から落ちる雫が帽子を小さく叩いている。みるくは腰の鈴を鳴らし、木の幹に赤い毛糸を結びながら進んだ。途中で干しブドウをつまもうと袋を開けたところ、霧の奥から、くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。
「誰かいるの?」
「ぼくは誰でもないぞ。森のこびとなんかじゃないぞ」
声のするシダをかき分けると、緑色の帽子をかぶったこびとが、キノコの籠を抱えて座っていた。帽子の先から水が滴り、丸い鼻には泥がついている。強がってはいるが、裸足の指は小刻みに震えていた。
「迷子でしょう」
「ちがう。帰り道が勝手に消えたんだ」
みるくは笑わず、自分の黄色い靴下を片方脱いでこびとの両足へ巻いた。左右で長さが違うため妙な格好になったが、こびとは気に入ったらしく、何度も足を眺めた。二人で薬草を探していると、突然、低い唸り声が響き、霧の中から苔むした大狼が飛び出した。
「後ろへ下がって!」
みるくは短剣を抜いたが、大狼は三頭もいた。濡れた柄が手の中で滑り、朝に飲み残した豆乳が急に惜しくなった。そのとき、こびとが籠のキノコを地面へ投げつけた。
「森のみんな、起きろ!」
赤いキノコから橙色の煙が噴き上がり、大狼たちは鼻を鳴らして逃げていった。煙は焼いた栗のような匂いがし、みるくは緊張がほどけると同時にお腹を鳴らした。こびとは得意そうに胸を張ったが、籠が空になったことに気づき、肩を落とした。
「今夜のスープがなくなった」
「宿屋へ来て。丸パンと豆の煮込みをごちそうするよ」
こびとは森の抜け道を知っており、薬草の群生地まで案内してくれた。昼前には霧がゆっくり持ち上がり、木々の隙間から金色の日差しが差し込んだ。町へ戻ったみるくは薬草を届け、宿屋の食堂でこびとと並んで豆の煮込みを食べた。片方だけ靴下を履いたみるくの足を見て、おかみは首をかしげた。
「森で何があったんだい?」
「帰り道が勝手に消えたんだ」
みるくとこびとは顔を見合わせ、熱い煮込みの湯気の向こうで一緒に笑った。