大総帥を待っていた夜
深夜二時前、みるくは灰色の部屋着に薄いカーディガンを重ね、ドラゴンクエストXの防衛軍へ申し込んだ。机には飲みかけの麦茶と、夕食で残した卵焼きが一切れ置かれ、乾いた醤油の匂いがしている。画面には「マッチング中」と表示され、仲間がそろうのを知らせる音を待っていた。現在の階級は総帥Zで、実績百八十五個による「防衛戦時、受けるダメージ一パーセント減」の効果は達成済みだった。
「これを勝てば、実績二百個。大総帥になれるかもしれない」
大総帥になれば、「防衛戦時、全てのダメージ一パーセント増」の効果を得られる。数字だけを見れば、たった一パーセントだったが、みるくには長く防衛戦へ通った証しだった。いつしゃきるだろうと画面を見つめ、冷めた卵焼きを箸でつまんだ。
「早く呼ばれないかな。楽しみだな」
そのとき、外の防災スピーカーから鋭い警報音が響いた。続いて、防災板橋の緊迫した声が、眠っている街へ流れた。
「地震です。大地震です」
みるくが顔を上げた瞬間、机が横へ動き、麦茶の表面が大きく波打った。コップの中の氷が激しくぶつかり、棚の小物が一斉に音を立てる。床から突き上げられたあと、部屋全体が左右に揺れ、みるくは椅子の背を両手でつかんだ。
「いや、怖い。こんなに揺れているのに、ゲームなんかできないよ」
画面ではまだマッチングが続いていたが、みるくは参加を取りやめた。あと一戦で大総帥になれるとしても、今は戦うときではない。手が震えて一度カーソルを外したものの、もう一度操作し、確実にキャンセルした。
「大総帥は逃げない。今日はやめます」
揺れが少し弱くなるのを待ち、みるくは足元へスリッパを置いた。床に落ちた物を踏まないように立ち上がり、壁へ手を添えながら、閉まっていたふすまを開けた。いつもなら軽く滑るふすまが指先に重く感じられ、開いた隙間から隣の部屋の冷えた空気が流れ込んだ。逃げ道を確保してから、台所へ続く床をゆっくり進んだ。
「ガスは大丈夫? 火は出ていない?」
台所では鍋もやかんも落ちておらず、ガスの火は消えていた。鼻を近づけすぎないようにしながら、ガス臭や焦げた匂いがしないことを確かめる。次に照明を見上げると、電気は消えずについており、異常な明滅もなかった。冷蔵庫の低い運転音がいつもどおり聞こえ、みるくは強く握っていたカーディガンの裾をようやく離した。
「ガスは大丈夫。電気もついている。火事にもなっていない」
地震は茨城県南部を震源とするマグニチュード五・九で、東京、埼玉、千葉、茨城では最大震度五弱を観測していた。津波の心配はなかったが、真夜中の大揺れは、ゲームの中のどの巨大な敵よりもみるくの体を固くした。机へ戻っても、防衛戦へ申し込み直す気にはなれなかった。麦茶を持つ指がまだ落ち着かず、コップを両手で包んだ。
「足の速い人がいつも競走に勝つわけでも、強い人が戦いに勝つわけでもない……」
伝道の書九章十一節には、思いも寄らないことがいつ誰にでも起きると書かれている。大総帥になるために装備を整え、戦い方を覚え、楽しみにしゃき待ちをしていても、地震が起きる時刻までは選べない。みるくは画面を閉じ、ふすまを開けたまま、すぐ動ける場所へ座った。総帥Zは達成済みだが、大総帥は未達成のままである。
「今夜は勝たなくていい。ガスと電気を確認できただけで十分です」
卵焼きは皿の上ですっかり冷え、醤油の跡だけが濃くなっていた。みるくは無理に食べず、余震に備えて靴と鞄を手の届く場所へ置いた。大総帥への一戦は、また別の日に申し込めばよい。今夜のみるくは、戦うことではなく、マッチングを取りやめて自分の暮らしを守ることを選んだ。