夏の世の夢――ピーターパン、わたしを連れだしておくれ
誰かと遊びたいと思うたび、みるくの指はチャット欄の手前で止まった。桃色の縞模様の上着に短いズボンを合わせ、海底のお花屋さんの白い床に座ったまま、誘い文句を書いては消した。現実の机には冷めた味噌汁と食べかけのアジの開きが残り、扇風機の風が取り込んでいない洗濯物を揺らしていた。
「いま暇なのら、遊ばない?」
そこまで打って、忙しいと言われたらどうしよう、返事そのものが来なかったらもっと困る、と考えて全文を消した。
「誰か、誘ってくれればいいのら」
もちろん、誰にも聞こえなかった。
みるくは海底のお花屋さんへ赤い花束を置き、隣に水色、その隣にはチョコ色を並べた。五十四種類に順番も物語もなかったが、並べているあいだだけは通知の鳴らない画面を見なくて済んだ。甘い花の匂いと海水の冷たさに包まれながら三十七個目の位置を直した時、珊瑚の木の陰から緑色の帽子が飛び出した。
「やあ、みるく。ずいぶん派手な秘密基地だね」
「誰なのら!」
「ピーターパンさ。遊び相手がいない子を、夏の冒険へ連れ出しに来た」
「子ではないのら。あと、この店は秘密基地ではなく、脈絡のない花屋なのら」
「もっと困る説明になったね」
ピーターパンが窓を開けると、青い海の向こうから生ぬるい夏風が吹き込み、花束のリボンがいっせいに鳴った。みるくは出かける前に残りの味噌汁へ蓋をするべきか迷ったが、夢の中なら腐らないことにして、差し出された手を握った。二人は海底洞窟を飛び出し、発光するクラゲの群れをくぐり、巨大なエイの背中を滑り台にして進んだ。
「次は沈没船へ行こう!」
「宝箱はあるのら?」
「たぶんあるよ」
「たぶんで人を誘うとは、なかなか雑なのら」
「誘うって、そのくらいでいいんだよ」
沈没船には宝箱の代わりに、道に迷った三人の冒険者がいた。彼らは暗い船倉で干し肉を分け合っていたが、みるくの腰からはみ出した青い花束を見ると、海底のお花屋さんへ行きたいと言い出した。みるくは喉の奥が熱くなり、上着の袖を何度も引っ張ってから、小さな声で帰り道へ誘った。
「よかったら、みるくの店まで一緒に来るのら?」
「もちろん!」
「五十四種類、全部見せてくれよ」
「途中で飽きても帰してあげないのら」
笑い声が泡になって天井へ昇り、五人は花屋を目指して暗い海を泳いだ。
目を覚ますと、扇風機はまだ洗濯物を揺らし、冷めた味噌汁も机に残っていた。けれど、みるくはチャット欄へ「海底のお花屋さん、本日オープンしたのら。暇だったら見に来ない?」と打ち、今度は消さずに送った。返事を待つあいだにアジの開きを一口食べたところで、通知音が鳴った。
「今から行くよ。五十四種類、本当にあるの?」
みるくは口元についた大根おろしを拭き、桃色の上着の襟を整えた。ピーターパンはもういなかったが、玄関の向こうには、夏の夜へ続く最初の一歩がちゃんと待っていた。