くらげの夜と山形のだし
一人暮らし二日目の夜、みるくは湯上がりの頬に手を当てながら、開け放した窓の前へ立った。東京の気温は二十度で、網戸を抜ける風が、青い小花を散らした木綿のワンピースの裾を静かに揺らしている。昨日までなら誰かの足音や咳払いに耳を澄ませていた時刻なのに、今夜聞こえるのは冷蔵庫の低い音と、ベランダの向こうを走る車の音だけだった。浴室にはまだ石けんの匂いが残り、洗面器の底では落としきれなかった泡が一つ、くらげのようにゆっくり回っていた。
「こんなにゆっくりお風呂へ入ったの、いつ以来かしら」
みるくは誰もいない部屋へ話しかけ、濡れた白髪を古いバスタオルで丁寧に拭いた。洗濯機の上には、引っ越しの荷物から見つけた片方だけの靴下と、輪ゴムで口を閉じた入浴剤の袋が置かれている。片方の靴下は捨てればよいのだが、もう片方が段ボールの底から出てくる気がして、そのまま残してあった。こういう役に立たない物まで自分の好きな場所へ置いておけることが、今夜は妙に面白かった。
「あなたも、今夜はそこで休んでいなさい。相棒が見つかるまでね」
髪が乾くと、みるくはアストルティアへ降り立ち、青い海底の部屋へ向かった。天井近くには紫色の大きなくらげが浮かび、透き通った触手の先で淡い光が瞬いている。白い長髪の小さな冒険者は、青い上着と水色の短いズボンを身につけ、床へぺたりと座ってくらげを見上げた。揺れているだけで急ぐ様子のない姿を眺めていると、胸の奥に残っていた細かな力まで、指先から抜けていくようだった。
「いいわねえ、あなたたち。締め切りも、引っ越しの段ボールもないのでしょう」
返事の代わりに、くらげの傘がふわりと膨らんだ。みるくは丸い吊り椅子に腰を移し、小説投稿サイトを開いた。ほかの作者が書いた物語を読み進めると、剣を抜く場面では背筋が伸び、夕食を囲む場面では急におなかが鳴った。机の端には昼に飲み残した麦茶があり、氷はすっかり消えていたが、口に含むと香ばしさが舌に残った。
「人の小説を読む夜も、悪くないのら。今日は戦わなくてもいい冒険の日なのら」
ところが物語の中で主人公が冷たい麺を食べ始めると、みるくのおなかがもう一度大きく鳴った。冷蔵庫を開けると、きゅうりが二本、なすが一本、みょうがと大葉、それから使いかけのしょうがが入っている。引っ越したばかりなので調味料はまだ一列に並ばず、醤油の瓶だけが卵の空いた棚へ横向きに押し込まれていた。みるくはエプロンの代わりに古い手ぬぐいを腰へ挟み、まな板を流し台へ出した。
「山形のだしでも作りましょうか。くらげさん、細かく刻むのを手伝ってくれたら、一口あげますよ」
きゅうりを刻む音が、静かな台所へ小気味よく響いた。なすの青い匂い、みょうがの鋭い香り、大葉を切った瞬間の涼しい香りが重なり、過ぎていく夏が小鉢の中へ集まってくる。細かく刻んだ野菜へ醤油と少しの酢を混ぜ、冷蔵庫に残っていた白いご飯へたっぷりのせると、緑と紫の粒が宝石のように光った。みるくは箸で一口運び、しゃきしゃきした歯触りと、しょうがの辛みをゆっくり味わった。
「おいしい。疲れた体には、こういうものがいちばんね」
窓から入る二十度の風が、風呂上がりの首筋をやさしく冷ました。部屋の隅にはまだ封を開けていない段ボールが三箱あり、その上には畳み損ねた薄桃色の下着が一枚載っている。それでも今夜は片づけず、食器を洗ったら再び海底の部屋へ戻ろうと決めた。誰にも急かされず、自分で作ったものを食べ、自分で選んだ物語を読む一人の時間は、くらげの傘のように、ゆるやかに膨らんでいた。
「明日できることは、明日にしましょう。今夜はこのまま、夏を見送るのら」
みるくが青い部屋へ戻ると、紫のくらげたちは変わらぬ速さで漂っていた。彼女も床へ座り、読みかけの小説を開き、器の底に残った山形のだしをもう一口だけつまんだ。一人暮らし二日目の夜は何事も起こらなかったが、何事も起こらない時間を自分のものとして味わえたことが、今夜の小さな冒険だった。