みるくの憂鬱
古びたパソコン本体から低いモーター音が響くたび、みるくの胃のあたりはきゅっと縮んだ。西日の差し込む六畳間では、回転の乱れたファンが唸り、机の端に置いた空のペットボトルをかすかに震わせている。その隣には、粉末の溶け残ったコーンポタージュのマグカップと、去年の十月にサポートが終了したことを知らせる警告画面の文言を書き写したメモが並んでいた。
光回線とプロバイダーを合わせた請求額は、一万七千円。そこへゲームの月額利用券と、新作衣装の代金を足せば二万円でも足りない。みるくは何年前に買ったのか覚えていない灰色のトレーナーの袖口を指先で引っ張りながら、パソコン本体の側面をそっと撫でた。
「画面の右下に赤いバツ印が出ていても、あと半年くらいは動いてくれませんかね」
返事の代わりに、ファンがぶうんと音を立てた。しばらく待つと暗かったモニターが明るくなり、目の前に澄んだ水と巨大な滝が広がる。桃色や橙色の葉を茂らせた大樹の向こうには、幾つものアーチが連なる石造りの橋が架かり、その上からも白い水が絶え間なく流れ落ちていた。
画面の中で待っていたのは、銀色の髪をしたエルフのみるくだった。橙色と白のフリルドレスに大きなボンネットを合わせ、青い水辺に腰を下ろしている。現実の部屋には部屋干ししたタオルの生乾きの匂いが残っていたが、安物のスピーカーから流れる水音を聞いているうちに、みるくは丸めていた背中を少しずつ伸ばした。
そこへ、水色と濃紺のドレスを着たチロルが駆けてきた。チロルはみるくの隣で足を止めると、くるりと一回転してから同じように水辺へ座った。二人のボンネットとスカートの裾が並び、滝のしぶきを浴びた紫陽花が、その向こうで青く輝いている。
「みるくさん、そのお洋服、すごく似合っていますよ。オレンジと白の組み合わせもきれいです」
コントローラーを握る親指に汗がにじんだ。画面の中のみるくは微笑んでいるのに、机の上の家計簿には赤い数字が幾つも残っている。先週、スーパーの見切り品で買った食パンの耳を油で揚げたものを一つ口へ運び、砂糖の粉がキーボードへ落ちないよう、みるくは皿を膝の上へ移した。
「ありがとう。でもね、頭と体と靴をそろえて、染料まで買ったら、今月のお肉代が消えちゃったのよ」
冗談らしく笑う顔文字を添えると、チロルも笑顔のしぐさを返してきた。その姿を見ていると、買ったことを後悔しているのか、似合うと言ってもらえたことが嬉しいのか、みるく自身にも分からなくなる。橙色のドレスは鍋にも米にもならないが、誰かと出会う約束のない一日に、チロルが声をかけてくれるきっかけにはなった。
チロルが立ち上がり、新しく覚えたしぐさを披露した。大きなリボンを揺らして両腕を広げたあと、もう一度みるくの隣へ座る。みるくは机の端に挟んだ家電量販店の広告へ目を移し、買い替え用パソコンの値段を確かめてから、すぐに裏返した。
「このパソコンが急に真っ暗になったら、あたし、ここで溺れちゃうかもしれないわ」
送信した文字が画面に表示されると、チロルはしばらく動かなかった。滝の音だけが部屋に流れ、足元の本体から熱を帯びた風が吹き出してくる。やがてチロルは立ち上がると、みるくの正面へ回り込み、何度も手招きするしぐさを繰り返した。
「そのときは、別の場所からでも呼んでください。迎えに行きますから」
みるくはすぐに返事を打てなかった。窓の外では、秋の始まりを告げる鈴虫が鳴き始めている。冷めたお茶を一口飲み、トレーナーの袖でコントローラーについた汗を拭うと、画面の中の二人を並んで立たせた。
パソコンがいつまで動くのかは分からない。来月の請求額も、家電量販店の広告に載った数字も変わらない。それでも今夜は、滝の前で待っていてくれる仲間がいる。
みるくは椅子へ深く座り直し、コントローラーのレバーを前へ倒した。橙色のスカートを翻した銀髪のエルフが、水辺から石造りの橋へ向かって走り出す。隣では、濃紺のドレスを揺らしたチロルがぴたりとついてきた。
「さて、気を取り直して、今日の討伐クエストへ出発しましょうか」