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「お前は私が許せんだろうな」
亡霊は、おぼろな指先で私の腰の鞘を指さした。
「その剣で私を斬るか? ……フム。既に肉体は消え失せたが、魔力を帯びた剣ならば魂すら討ち果たせるかもしれん。試してみるか」
それは挑発ではない。虚ろな瞳に宿るのは愉悦ではなく虚無。もし私が大上段に剣を振りかざしたとして、彼は微動だにせずそれを受け入れるだろう。
周囲で色めき立つ従者らの霊がどうするかは別として、だが。
私はゆっくりと息を吐き、首を振った。
「既に断罪を受けた者に、更なる裁きを与える趣味はありません。その権利も。ただ……」
「ただ?」
「貴方に一つ、お伝えしておきたい」
「ほう……?」
遠い時代の王は、興味をそそられたようだ。
私は軽く咳払いを入れる。
これは、リナーシェ様の心に土足で立ち入るような行為かもしれない。
だが、この男は知るべきだ。
それはどんな残酷な刃より苛烈に、彼の心をえぐるだろう。
*
私は語り始めた。
"心域"なる不可思議な空間で、私が始祖の記憶に触れたこと。ウェナの歴史と共に、ヴィゴレーの名もそこに刻まれていたこと。そして……
「あなたがこの指輪を贈ったその日の思い出も、確かにそこに刻まれていました」
私は掌の上に乗せた指輪を指し示す。
600年の時を薄暗い湿った空気にさらされてなお、その宝石は深い青に染まり、輝いていた。
この宝石は当時のジュレド地方の海岸から僅かに採取できる鉱物を丁寧に拾い集めて加工したものである。ヴィゴレーは王の身でありながら連日浜辺に赴き、何か月もかけて自ら指輪の材料を集めたという。
その行為が、歌姫の胸を打った。
政略結婚に過ぎないはずのこの婚約に、ヴィゴレーは誠意をもって応えてくれたのだと。
「リナーシェ様の日誌にはこう書き記されていました。この方の誠意に応えよう、と」
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それは嘘偽りのない記録。悪神に堕ちてなお、忘れることのできなかった記憶。
私は亡霊の瞳を正面から見据えた。
「彼女はあなたの意外な行動に驚き、心を動かされ……そしてあなたに恋をしたのです」
亡者の顔が一瞬、歪んだ。
痩せぎすの顔が空気に溶けこみ、煙のように揺らぐ。
始祖リナーシェは、彼が恐れたような怪物ではなかった。
望むものは、すでにそこにあったのだ。
だが、どうして信じられよう。リナーシェは完璧な役者だった。完璧を演じ続けた。ヴィゴレーすら騙されてしまうほどに。
絞り出すように、亡霊は呟いた。
「喜劇だな」
と。
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「600年前に知っておきたかったよ」
そして再び自嘲的な笑みを浮かべ、首を振った。
「いや、知ったとしてもなお、私は……信じられなかっただろう」
私は沈黙した。何を答えられようか。
「弱く、愚かな男がいた。それだけだ」
亡者の王は力なく肩を落とし、ため息をついた。風すら吹かず、地下遺跡の空気はどんよりと澱む。
彼はふと首を上げた。
「あの女は、現世に舞い戻ったのか?」
「天よりその功績をたたえられ……おそらくは神々の一柱に列せられるでしょう」
「では私は神殺しの大罪人として語り継がれるわけだ。愚者にはふさわしい末路だな」
ヴィゴレーはまたも自虐的な表情を浮かべた。
「だがその指輪だけは……我が棺に」
亡霊は震える手で棺を指さす。
私はその場で指輪を投げ捨てることもできた。仮にそうしたとしても、この亡霊が怒り狂い、私に襲い掛かることはないだろう。
私は亡霊の虚ろな瞳と、指輪にはめられた宝石を交互に見つめた。
海の色。青い輝き。
潮騒が聞こえてくるようだ。白い浜辺で、砂まみれになって宝石を探す男。
常夏の太陽のもと、心をときめかせる少女。
……歴史。
私は棺をわずかに開け、朽ち果てた遺骸の隣に指輪を丁重に奉げると、静かに蓋を閉じた。
「礼を言おう」
顔を上げる。と、もはや亡霊の姿はなかった。
彼を取り囲む従者たちの霊も含めて、全てが夢であったかのように消え失せていた。
雨だれであろうか。受刑塔の天井から何かが零れ落ち、冷たい風が、音叉の振動を伝えてくる。
鎮魂の鐘のように響くそれは、受刑地の隅々にまでしんしんと行き渡り、耳鳴りと混ざって消えていった。