
その夜……。
少々遅めに道場を出た私は、会場の様子がなんとなく気になり、宿に戻る前に中央広場に立ち寄っていた。
華やかな試食会の会場はほぼ出来上がっていたが、夜の帳がそれを包み、色とりどりの布を静寂の色に染め直していた。静かな風がそれをたなびかせる。街灯の小さな光が、闇に波打つ飾り布を淡く輝かせていた。
ドワーフもメイドたちも、もうそれぞれの寝床に戻ったのだろう。夜の中央広場に聞こえる足音は私自身のものだけだった。
……いや、そうではない。
小さな足音、そして微かな衣擦れの音。
『誰か、残っているのか………?』
そう声をかけようとして、私は口を閉ざした。
何故だろう。説明はつかない。だが夜の空気が刺すように私の肌に染みこみ、奇妙な緊張感が私の背びれを尖らせていた。
『見られている……?』
唐突に、そう直感した。

私とてヴェリナードの魔法戦士。犯罪捜査もすれば密偵として他国を調査したこともある。反射的に私は猫足立ちになり、忍び足で物陰に身を隠した。
月が輝く。
沈黙が町を見下ろす。
……と、今度はコツコツと、あからさまな足音を立てて近づいてくる気配があった。一直線にこちらに向かって、だ。
威嚇である。
『気づいているぞ、と告げているわけか』
だがそれが逆に私を安心させた。
こういうことをやるのは、少なくとも賊の類ではない。むしろその逆だ。
その足音はテントの布を挟んで、私の数歩先で止まった。
そして
「かくれんぼがお好きですか?」
と、挑発的に問いかけた。
その声に、私は聞き覚えがあった。
「君もそうらしい」
私は影から姿を現した。
声の主……ライハーナは少し驚いたようだった。
*
「……最近は妙なお方が多いようで」
テントに私を招き入れた筆頭メイドは、そう言って紅茶を注いだ。ランプの明かりがゆらゆらと彼女の影を揺らめかせる。
「会場に迷い込む通行人が多いんですよ。それも深夜にばかり」
私は眉をひそめた。初耳だ。ライハーナは紅茶を私に勧めながらとぼけた顔で微笑んだ。

「ご安心ください。ほとんどはただの酔っ払いでした」
「残りの内訳を聞こうか」
「そうですねえ……」
私の問いに、彼女は口元に手を当ててクスッと笑い声を漏らす。
「急に気配を消して物陰に隠れた不審なお方がいらっしゃいましたね」
えぐみのある茶の味が舌先を突き刺した。私は仏頂面でそれを飲み込む。
「……それなら、不自然なほど厳重に周囲を監視して、微かな気配も見逃さなかった怪しいお方もいたんじゃないか?」
「プロですから」
私の反撃をライハーナは軽く受け流した。果たして何のプロやらだ。最近のメイドは気配の察知もできるのか?
「それで、寝ずの番か?」
「まさか。交代制です」
「言ってくれれば私も手伝ったのに」
「お客人にそこまでお願いできませんわ」
彼女は自分でも茶を口にしつつ、優雅に微笑んだ。私は鋭く彼女を凝視した。
「……何故そこまで警戒する?」
「注目されてますからね、この企画は」
メイドは微動だにしない。細い首筋が微かに震え、音もなく紅茶を飲み込む。
「この国にも、色んな方がいるんです」
昼間と同じセリフを彼女は口にした。
「確かに、色々いるようだな」
私はあえて無防備に両手を首の後ろに回し、大きく伸びをした。
ライハーナは無表情な微笑を浮かべたままそれを見つめていた。
「ご安心ください」
彼女が紅茶を手にしたまま立ち上がると、ランプがライハーナの影を巨大化させ、テントの壁に大写しにした。
「当日まで妙なことが起きないよう、きっちり見張らせて頂きますから」
そう断言する彼女は、もはやただのメイドではあり得なかった。
「……頼もしいな」
ティーカップに口が触れる。
濃厚な香りと共に流れ込む紅茶の味は、舌の上で複雑に絡み合い、判然としなかった。