スィーテの宿に、疲れ果てた護衛兵が体を横たえ傷を癒す。首のない女神像に守られたこの宿は今、野戦病院と休憩所を兼ねた我々の拠点となっていた。

酒場を兼ねた食事処には、ヒューザやアスバルの顔もある。ニワトリの壁飾りが見守る中、私は料理を運んでいた。
料理人の姿はない。調理場ではリルリラや研究院のドワーフたちが代理でフライパンを握っていた。接客カウンターも無人。宿屋スィーテその人の姿すら、今、この場所には存在しないのだ。
「お待ちどう様」
テーブルに運んだ料理も、質素なものばかりである。名産のポテトサラダやエッグシチューは良いとして、それ以外は缶詰や携帯用の干し肉、乾パンを食器に盛っただけのものだ。
「おい、これ貰っていいか?」
と、ヒューザが皿の一つを持ち上げた。缶詰のサバだ。脂たっぷりのサバ缶。彼の好物である。
私は唇の端を持ち上げた。
「お前が調査隊に参加したと聞いて、わざわざ持ってきてやったんだぞ」
私はあえて恩着せがましく言いながら、わざとらしくため息をついてみせた。
「なのにお前ときたらアッという間にとんぼ返りだ。結局、用意した分の大半が輸出品になってしまった」
「輸出できるほど仕入れてくるんじゃねえよ! 嫌がらせかよ」
むろん、嫌がらせである。積みあがったサバ缶を押し付けてやる予定だったのだ。ヒューザはサバを口に詰めながら閉口した。
「素晴らしいね!」
と、絶賛したのは魔王アスバルである。
「傷みやすい魚をいつでも食べられるように油漬けにして密封保存……しかも旨味も逃がさず、むしろ漬けることでコクが増している! さすがは海の民ウェディ。魚介類に対する情熱が素晴らしいよ!」
熱を帯びた論評を披露しつつ上品な手つきで缶詰のサバを口にする。リズク王といい、異世界の王は缶詰に弱いのか……?
「いや、こいつの場合ただのアストルティア全肯定マニアだと思うぜ」
ヒューザは呆れたようにため息をついた。アスバルが苦笑する。どうやら、気の置けない仲というやつらしい。
「しかし、ここでミラージュと会えるなんて奇遇だね」
叔父の一件以来かな、と彼は呟く。リルリラが飲み物を届けながら嬉しそうに笑みを浮かべる。
「私も急にシリルさんが来てビックリしちゃった」
アスバルは気品ある笑みを返した。
魔王アスバルと我々の出会いは、まったくの偶然からだった。ある事情により身分を隠してアストルティアを旅していた彼を、私とリルリラが案内したのだ。シリルとは、その時に名乗っていた名だ。
「確かに、驚いたな……」
私は雑談のふりをして、ヒューザとアスバルに一瞬の視線を送った。剣士は目をそらし、魔王は柔和な笑みを浮かべた。
むろん、彼らが調査隊に参加していることは私も知っていた。だが我々がゼニアスに到着した頃には彼らは調査を終え、それぞれの故郷に帰還済みだったのだ。
その彼らがわざわざ戻ってきた。ヒューザはともかく、アスバルは魔王だ。今回も表向き身分は隠しているが、軽々しく行き来できる立場ではない。
「あーあ……」
隣のテーブルではオーガの護衛兵が酒を飲みほして盛大なため息をついていた。
「ガナン帝国かぁ……ただの護衛のはずが、そんな奴らとやりあうことになるとはなぁ……」
ドワーフの技術兵も腕を組んで唸った。
「古代帝国の悪霊……そんなものが襲ってくるとは……」
私は再度、意味ありげな視線を二人に送った。ヒューザは席を立ち、アスバルは変わらぬ表情で果実酒を揺らす。
あの謎の兵士達は現在、ゼニアスの各地を襲撃しているらしい。アスバルはそれを古代帝国の亡霊と説明した。
ジア・クト襲撃よりさらに以前、太古の時代に世界を席巻したガナン帝国。その怨念が何らかの理由で蘇り、生者に害をなすのだと。

「ドゥラ院長と隊長の呼びかけで、帰国してた僕達も呼び戻されてね。他のメンバーも各地防衛の任についているはずだよ」
アスバルは淡々と語った。
だが、ただの悪霊退治に魔王自らが出向くだろうか……? 視線に乗せた疑惑は、高貴な微笑みに阻まれた。全員の前で詳細を語るわけにはいかない。彼は無言の内に私をそう諫めていた。
「それより、村の人達が心配だね」
魔王はさりげなく話題をそらす。ちょうどその時、宿の扉が回転し猫魔道が姿を現す。見回りに出ていたニャルベルトだ。
「村の皆、相変わらずだったニャ」
「そうか……」
私は彼に飲み物を取ってやりながら、深くため息をついた。それが護衛兵たちにも伝染する。
「帝国だけでも大変だってのに……」
「泣きっ面にキラービーですね」
護衛兵が天井を見上げる。
彼らの言う通りだ。
我々はもう一つ、大きな悩み事を抱えていたのである。