
女神ゼネシア。
言うまでもなく、私は彼の神と対面したことはない。"隊長"にまつわる噂話と、いくつかの神話を通してその姿を知るのみである。
神話の一つはこうだ。
主神グランゼニスは相争う人間達を見つめて、二人の娘に問うた。人をよりよく導くために、何が必要かと。
妹ルティアナは、争う必要のない豊かな世界を、と答えた。
姉ゼネシアは、団結して立ち向かうべき強大な敵を、と答えた。
苛烈ではある。だが理解はできる。決して悪神の言葉とは思えなかった。
「猫を被ってたってワケだな」
ヒューザが吐き捨てると、猫魔道がくしゃみをした。アスバルが続ける。
「結局、ジア・クトの強さは女神にとっても計算違いだったらしい。彼女は敗北し、ゼニアスも崩壊。後は知ってるだろう?」
アスバルは憐れむようにため息をついた。主神グランゼニスは命を賭した呪いでジア・クトを追い払い……その代償としてゼニアスは幾星霜の眠りと呪いに苛まれることとなった。
「大失態……いや、大罪人ですな」
「その罪人が蘇ったわけだ」
ヒューザとアスバルが代わる代わるに説明する。女神ゼネシアはグランゼニス亡き後の主神として、生き残りの天使達に神の証であるオーブを要求したそうだ。
だが彼らは譲らなかった。咎人たるゼネシアに主神の資格なし。
「で。よこさないなら、って脅しをかけてきたってわけだ」
「どうも……神にしては短絡的だな」
私は首を傾げた。神々しい女神のイメージが音を立てて崩れていく。アスバルは頷きつつ語った。
「メネトの眠りだけじゃない。アマラークにはフーラズーラの脅威を、ムニエカには人形たちの狂気を……」
かつて各地を襲った災いを、そのまま再現してみせた形である。悪趣味な、と私は小さく呟く。
「その上でゼネシアは更にガナン帝国を復活させ、自分の手足として送り込んだのさ」
アスバルは語る。あの不気味な兵士達がそれだ。
私はそれぞれの町を脳裏に思い浮かべ、一瞬の焦燥にかられたがすぐに振り払った。
アマラークにはジーガンフ、そして彼が鍛え上げた兵士や住民達がいる。ムニエカにはナブレット団長とエステラ嬢。燈火の調査隊あらため、燈火の防衛隊。易々と思い通りにはさせないはずだ。
「それにしても」
と、私は腕を組んだ。
「ただそれだけの為に死者を利用するとは……」
私は物言わぬフルフェイスヘルムに微かに同情の念を抱いた。虚ろな瞳。意思なき行軍。

「ゼネシアにとって、自分以外は等しく利用すべきものなのかもしれないね」
アスバルの瞳に一瞬、愁いが宿った。私はハッと思い至った。魔妃エルガドーラ。我が子を人形のように操った魔女……
「シリルさん……」
リルリラが気づかわしげに声をかけた。
だが次の瞬間、その瞳に更なる漆黒の炎が揺れるのを見て、私は慄然とした。峻烈なる怒り。否、憎悪。
リルリラが思わず一歩下がる。彼は無表情に語った。
「僕にとっても他人事じゃない。何しろ僕は一度"消された"んだからね」

「消された?」
私は無意識にリルリラを後ろに庇いつつ、オウム返しに呟いた。漆黒が静かに頷く。
「創失の呪い……君達も知ってるだろう」
アスバルは淡々と言葉を紡いだ。静かに。冷徹に。
「僕は一度、創失している」
エルフが、言葉を失った。
主神グランゼニスがジア・クトに対抗すべく生み出した創失の呪い。
その呪いは消えてはいなかった。それどころか何者かがそれを利用して魔王アスバルを創失させ、魔界を混乱に陥れたというのだ。
「そんなことが!?」
私は耳を疑った。だがそれ以上にショックを受けていたのは、リルリラだった。
「シリルさんが……創失……?」
華奢な体がぐらりと揺れるのが見えた。

「私、気づいてなかった……」
「気づかないのが創失なんだよ」
魔王は首を振った。
「その人が存在していたことすら忘れてしまうんだ」
そして復活した際には、再び最初から存在していたかのように記憶が上書きされる。それが創失の呪いの最も恐ろしく、おぞましいところである。
「僕だけじゃないよ。竜族のあの神官……」
「エステラさん!?」
リルリラが悲鳴のような声を上げた。魔王は頷く。
「彼女も一度、創失させられたそうだ」
リルリラはもう、声も出なかった。背中が震えていた。私はその肩をそっと引き寄せた。汗に濡れた体が触れる。熱い。
「そして今、創失の力は女神ゼネシアと共にある」
アスバルは漆黒の瞳で空を見上げた。
「借りは返させてもらうつもりだ」
戦慄すべき闇を孕んだ声で、魔王アスバルは静かに、しかしはっきりと断言した。
空が震えていた。
杖の先で、ニワトリが小さく声をあげた。