黒い風が立ち止まる。岩山にぽっかりと穴を開けたような窪地に、人と魔狼。細く鋭い眼光が、好奇と興味の色に染まる。
何故そう思ったのかはわからない。気が狂ったと思われるかもしれない。だが私はごく自然に思っていた。
この獣と話してみたい、と。

「覚えてるかどうかわからんが、あの時……」
と、私はかつてゼナベスティアと対峙した時の話を持ち出した。
「あの時の私は仲間とちょっと……揉めていてな。……ま、私が悪かったんだが」
誰に言い訳しているのか、戦場にはおよそ似つかわしくない日常的な言葉を、獣は不思議なものを見る目で聞いていた。
何故今、そんな話をしている……?
自分の滑稽さに奇妙な笑いが浮かぶのを必死で抑えながら、私は言葉を続ける。
「だがお前という脅威が現れたことで仲直りのきっかけができた。感謝せねばならんだろ?」
軽く肩をすくめる。神獣は無言。
「人類を団結させるための脅威……女神ゼネシアの理屈、あながち間違ってはいない」
戦の喧騒の中、この窪地だけに静まり返った風が吹く。
舌先三寸で時間を稼ぐ。そういう打算があったことは否定しない。だが、剣と共に突き付けた私の言葉は決して嘘ではない。
狼の瞳は、揺れたように見えた。奇妙であった。神々しく獰猛な神獣の表情が、ひどく、幼い。
「……だが今の女神はどうだ?」
私は獣を睨みつけた。神の名を戴く獣は、対抗するように赤黒い瞳をとがらせる。
「主神とやらの座を巡って下らぬ大立ち回り……あまつさえ自分に都合の悪いものは創失の彼方に押しやってなき者にしようなどと!」
リルリラの沈んだ顔が脳裏に浮かぶ。剣が震える。ゼナベスティアは低く唸った。
「そもそも主神とは何なのだ? 何故ゼネシアはそんなものを目指す!」
グランゼニスは人間同士の争いを無言のまま見つめ続け、ジア・クトとの戦いでは自らを呪いと化してゼニアスを守った。
ルティアナはジャゴヌバの侵攻からアストルティアを守るため、その一部を魔界として切り離し、長い苦悩の果てにジャゴヌバとの戦いに散った。
私には主神の座など、呪われた玉座にしか見えない。

「何より……」
私は一歩踏み込む。獣の爪が大地を掴む。
「お前は何のために戦っているのだ?」
獣の喉奥から、地より響き渡るような唸り声が響く。私はさらに一歩、踏み込んだ。
「お前もジア・クトの侵略の時にはゼニアスを守るため戦ったはずだろう!」
それが、勇み足となった。
ジア・クト。
その名がゼナベスティアの何かに触れた。
雄たけびが響く。逆立ったたてがみが天を突き、怒りに燃える眼差しが彼の敵を睨みつけた。
私を……私の右手。その内にある水晶の剣……ネレウスソードを。
「……おい……?」
私は一瞬の違和感と既視感に、間の抜けた声を上げていた。
覚えがある。この怒り、この視線。
魔剣神レパルドが私に向けたあの視線。
『ジア・クト!』
憎悪の声が聞こえたような気がした。
そして神狼は地を蹴った。その牙に赤い雷を秘め、私の右腕に向けて。
「えぇい!!」
私は理力と全霊を込め、横薙ぎの斬撃で迎えうつ。
水晶の剣、念晶の体。この剣とジア・クトを混同しているなどという冗談は……
「一度きりで十分だぞ!!」
ギガスラッシュ! 雷光と赤雷が交わり、ピシャリと弾ける。赤と白の閃光が交差し、衝撃が右腕を貫いた。
球状に放電した理力が大気中に破裂する。私はその場を飛びのく。黒い影は、頭上にあった。
「ちぃっ!!」
私は逆に身を屈ませた。両膝と後ろ手に力を溜めながら、跳ぶ時を待つバネのように静止する。
黒狼が迫る!
瞬間、ハヤブサのように私の剣も跳ねていた。鋭く、四つ!
きしんだ音が響いた。すれ違うように交差し、鮮血が飛び散る。右腕か!
振り向いた獣は、なおもたてがみを逆立てて吠える。いくつかの傷を負いながらも戦意は萎えるどころか、燃え上がるばかりだった。
なおも宙を舞う。同じ切り抜け方をもう一度……型通りに演じきれるか!?
身をかがめ、必死で剣を構える。
だがその頭上で、影が跳ねた。
「-----!!!」
声なき声が響き、ゼナベスティアが弾かれる。代わりに私の隣に着地したのは、見覚えのあるシルエットだった。
「よう、苦戦してるじゃねえか。犬っころに好かれるタイプだったか?」
ヒューザは皮肉っぽい笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「ああ、どうやら向こうは大物から狙う作戦らしい」
私は軽口を返し、その隣に並んだ。二つの刃が油断なく獣をけん制する。
赤い瞳が、その刃を凝視していた。