「皆さん」
と、その影が声を発した。美しく凛とした声を。
「あれは……」
誰かが呟いた。誰も次の言葉を必要としなかった。それが誰であるか、知らぬ者はいなかったからだ。
悠然と風にたなびくブロンドの髪。意志を秘めたその眉と青い瞳が真摯な視線を民衆に投げかける。そして特徴的なほくろを持つ可憐な口元が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
ビルートの立つ壇上のはるか上、ムディカの掲げた剣を高みから見下ろして、勇者姫アンルシアは静かに、しかしどこまでも響く声で語り始めた。

「皆さんを不安にさせたこと、申し訳なく思います」
無意識に、誰もが黙り込む。勇者姫の声にはまだ、それだけの力があった。
「……しかし私は今も昔も、あなた方を守る勇者として、戦い続けています」
雲間からわずかに差し込んだ陽光が、アンルシア姫の影と重なる。トーレスが見とれたように言葉を失う。
「あれが勇者姫っスか……」
シャビーが感慨深げに勇者を見上げた。ラミーロは小さく口笛を鳴らす。
勇者姫は身を乗り出し、声を振り絞った。
「今、戦うべきは魔王ではありません! あくまでも各地を襲う魔物たち……そして魔族を疑わずにいられない、我々自身の弱い心です」
どよめき。そして不平の声。それを受け入れるかのように彼女は両手を広げた。
「私は守るために戦います! 皆を守るために! 争いを広めるためではないのです!」
「臆病者!」
誰かが叫んだ。途端に群衆が同調し始める。
「魔王と戦え!」
拳を突き上げる。勇者は必死で訴える。群衆の声は過激さを増していく。
「魔族は!敵ではありません!」
「売国奴め!」
「狂った豚め!」
勇者の声が罵声にかき消され、城壁に石が投げつけられる。目も当てられぬ状況となった。
「……なんなんスか、これ」
シャビーが苛立った声を上げる。
「私は皆さんを……」
勇者姫が叫ぶ
警報が鳴り響いたのは、その時だった。
兵士が広場に駆け込んでくる。
「敵襲! 魔物の接近を確認しました!」
「防衛軍! 出撃準備!」

早鐘と角笛が危急を告げる。瞬く間に、先ほどまでとは別種の嵐が巻き起こった。悲鳴。恐慌。民衆が雪崩を打って広場から逃げ出し始めた。阿鼻叫喚の様相であった。
遠巻きに様子を伺っていた一般市民もそれに巻き込まれる。通行止めを食らっていたパン屋の娘が突き飛ばされるのを、私は助け起こさねばならなかった。
「巻き込まれる前に、避難所に」
「あ、ありがとうございます!」
バスケットの中身を拾い集め、娘は頭を下げながら走り去った。
勇者姫は踊るように城壁から飛び立つ。
「心配しないで! 私があなたがたを守ります!」
凛とした声で宣言し、屋根をまたいで一足飛びに戦場へと向かう。雷鳴を響かせ、稲妻をまとい……その姿、風のごとし、だ。
ビルートはまだ壇上で何か喚いていたようだったが、聞くものはいなかった。
逃げ惑う人々の間でただ一人、傭兵団長が不敵な笑みを浮かべる。

「我々も防衛軍に合流するぞ」
私は三人に声をかけ、防衛軍の駐屯所へと足を急がせた。
もちろん、若きシャビーは毒を吐くのを忘れなかった。
「あんな奴ら、守ってやる必要あるんですか?」
「お仕事、お仕事。文句言いなさんな」
ラミーロが長い手でポンとその頭を叩き、追い越していった。
シャビーは口を尖らせたまま、トーレスは無言でそれに従った。