【チャプター2:サム・デイ・ワン・デイ】
月は美しく、しかし雲に滲んでかすんで見えた。
その月を見上げるエルフの瞳もまた愁いの色に濡れていた。
雲交じりの夜空はウェナには珍しくない。だが今日だけは、それが疎ましかった。

エルフのリルリラは昔からの相棒だ。ウェナ本国に一時帰還した私にとって、彼女と語り合うこの時間は、短くも貴重なひと時だった。
バルコニーから空を見上げ、彼女はため息をつく。私は彼女の隣にそっと並ぶ。エルフの耳が腕に触れた。
「出発は明日の昼だったな」
「うん」
エルフのリルリラは言葉少なに答えた。快活な彼女には珍しい、弱気な様子だった。
「不安か?」
私は彼女の顔を覗き込む。長年の付き合いだ。エルフは意地を張ろうともせず、頷いた。
「危険はこれまでもたくさんあったけど、なんか今回のは……嫌な感じだよね」
手すりに体を預けながら、彼女の視線は空から地へと降りて行った。ヴェリナード城下町。白亜の町に流れる水は時に恵みとなり、時に水路となり、人の営みを形作る。ウェナの誇る水の都。
その水に今、濁りが見える。
汎人類主義のシュプレヒコールは、このヴェリナードにも響き始めていた。
人の声は水と同じだ。時に澱み、時に滞り、時に濁流となって流れ落ちる。
「……大丈夫だ」
私は彼女の肩に手をやり、軽くさすった。できる限り、優しく。
「その為にナドラガンドに行って貰うんだからな」
「うん……」
魔界との関係が乱れつつある今、もう一つの懸念事項は竜の国ナドラガンドとの関係だった。

中立の第三者がいれば和平の楔として頼ることもできる。逆に彼らまでが敵に回ればアストルティアは挟み撃ちとなるだろう。
そこで各国の連名による使節団の派遣が決定されたのである。
リルリラを使節団に推薦したのは、他ならぬ私だった。
彼女はエジャルナの神官エステラと懇意にしている。必ず役に立つ。それが表向きの理由だ。決して嘘ではない。
だが、本音を言えば……
私は肩を抱く腕に、無意識に力を込めていた。
本音を言えば、これから起こるであろう人類同士の不毛な争いから彼女を遠ざけたい。ただそれだけの理由だった。
これまでとは全く別種の、不吉な予感がする。彼女をそこに巻き込みたくはなかった。
私はエゴイストか? たぶん、そうだろう。
「事件のことも心配だけど」
と、一息つくと、リルリラは少し背伸びをして、私の瞳を覗き込んだ。
「私が一番心配なのはミラージュのこと!」
リルリラはギュッと私の右腕を捕まえて強く握る。
「ミラージュは腕に爆弾かかえてるんだから!」
エルフの細い指が右腕に食い込む。
「ジア・クトの念晶、か……」
私は自分の腕をじっと見つめた。

ゼニアスで明らかになった事実だ。私の腕に、天星郷で戦ったジア・クト念晶体の欠片が埋め込まれていること、そしてその念晶には、創失の呪いの残滓がこびりついているであろうこと……
憎悪と衝動が念晶の力を呼び覚ませば、何が起きるか分からない。最悪の場合、私がジア・クトそのものに成り果てたり、創失の呪いに包まれて消えてしまう可能性すらある。
……いや、本当の最悪は、創失の呪いが私から更に他者に伝染し、周囲の人々までも消し去ってしまうことか。
「……心配するな。そのためのジーガンフだ」
私は多少無理をしつつ、笑顔を作って見せた。
武術家ジーガンフより伝授された"気"の制御。それこそが創失に対抗する創生の力だった。私自身は勿論、行動を共にするラミーロらにも予防として同じ武術を学んで貰っている。
「それに、急に悪くなることはないと神獣のお墨付きも貰ったしな」
ラキ……あの白い狼の姿を思い出す。全てが終わったら、会いに来い。彼は私にそう言い残した。
それがいつになるのか、今はまだ分からない。
「だけど……本当に無理はダメだからね!」
リルリラはキッと私を見上げた。アーモンド型の瞳が泉のような光を湛えながら真っ直ぐに私を見つめる。
「知らないうちにミラージュがいなくなって、それに気づきもしないなんて、絶対イヤだから……!」
「不安なのは、今だけさ」
私は即座に首を振った。いつになく弱気な彼女を力づけたかった。だからあえて、笑った。
「終わってみれば何事もなく……笑い話で終わるさ」
「……そうだね」
リルリラは一度瞳を閉じ、そして笑みを浮かべた。愁いを秘めた笑みを。
「いつも通り、普通に……だよね」

月光がバルコニーを柔らかく照らした。遠くから、波の音が響く。
宵闇と静寂が、白亜の都を包みこんでいった。