はいどうもー!リュックサックバトルやりすぎかるみんです。ちょっと疲れてきたので、一回気分転換と休息を兼ねて、ふと今さっき浮かんだことでも日誌に書きます。
年の功と言えば、亀の甲より年の功ということわざが由来になっている言葉で、年齢を経て積み重ねた経験は素晴らしいものだ、というような意味合いの言葉です。
みなさんは、年の功だなあと感じたことがありますか?また、ある場合はどのような瞬間に年の功だと感じましたか?
私は、ドラクエ10をしている時に結構感じてますね。具体的には、人間関係で問題が生じた時の対応やその後の切り替え方だったり、他者同士がいがみ合ってるのを目撃した時だったりですね。
過去を振り返れば、似たようなことがあったなあと。特に顕著なのが、若者が何かやらかした時の周りの対応についてです。そこに思うことがよくあります。
私は幼少期から青年期に至るまで、未成年どころかモラトリアムの期間中までとんでもないクソガキだったので、山のようにあちこちで人間関係のトラブルを起こしまくってきました。尋常ではない数ですね。日常茶飯事でした。今でもそうじゃん?と言われたら、返す言葉もございませんが~。
まあそんな感じでゴミカスを極めていた人間だったので、大人から礼儀知らずだとか、常識がないだとか、親の顔が知りたいだとか色々とボロクソに言われることが多かったです。
32歳を目前に控えた今、当時10代だった時のことを振り返ってみて、果たして本当にそうだったのか?それを考えてみたら、半分正しくて半分間違ってると思ったわけです。
過去の自分が大人から散々な罵られようをしたやらかしを、仮に今の自分が被害者の立場を入れ替えて同じ目に遭っていたとしたらどう思うか。ここ数年での自分自身の考え方や実際に反映した対応なども踏まえて答えてみれば、全く怒るようなことではない。ましてや、罵詈雑言を浴びせて人格否定をするなどもってのほかである。素直にこう思いました。
それとはまた別の話で、やらかし自体は真っ当な間違いでもあると思いました。明確に社会に生きる者として間違いであり正さねばならない類のことではあるものの、若者ならよくあること。諭したり、叱ったりすることはあれど、怒ることでもないがより適切な感じです。
若者が社会を知らないなんて当たり前のことであって、どれだけ神の寵愛を受けた寵児であってもそれは変わりません。実際に世界中で行われているギフテッドの研究では、生まれ持ったIQや才能に関係なく、精神的な発達はまた個別であり後天的にしか鍛えられない、と最近では結論付けられています。つまり、経験を積んで年を重ねなければ、どんな天才であろうとも精神的な成熟は出来ないということです。
知らないから、経験してないから出来なくて当たり前。そんなことを責める意味があるのですかと問うてみれば、答えなんかあるわけがない。これ以外にありませんし、それに怒るなんてただの溜飲を下げる行為に他ならないですね。相手のためではない自分自身のためのパフォーマンスでしかなく、むしろ恥じるべき行いです。
これらを踏まえてみた結論としては、半分正しくて半分間違っていたってことになります。当時の若かった私が間違っていたことは事実で、無礼を働いたと非を受け入れなきゃいけなかったのは正しい。
ただ、それに対して必要以上に怒り狂って貶してきた大人たちの反応が、若者を導く責務のある大人としてあるべき姿ではなく間違っていた。今の私なら、こう感じることが多かったです。
結局は、どちらも程度が知れていた。目くそ鼻くそを笑っていただけだったんですね。当時からこんな大人にだけは死んでもなりたくないと感じたものですが、立ち振る舞いや言動こそ改善の余地しかなくても、その気持ちだけは間違っていなかったようです。
私は、大人というワードを好んでよく使います。大人という解釈に個人的な思い入れが大きいからです。こんな大人にだけはなりたくないと、恐らく人生で1万回は思ってきたと思います。そういう成長過程を経たので、自分が大人足るかどうかということに人一倍敏感みたいですね。
年齢をただ重ねただけが大人ではなく、精神的な成熟を伴っているかどうか。これが本物の大人かそうじゃないかの違いだと私は思っています。それに見合う人間になれるよう、日々を生きているつもりです。
ネトゲは良いものです。本来であれば、職業や家庭環境がら若者と接点がない人は、なかなか社会に出た後に関わる機会は少ないですからね。ネトゲだからこそ、頻繁に若者や別世代の人間と触れ合えている。人として成長する上で、この上なく良いチャンスだと思います。私がネトゲを好きな理由でした。おわり。