「――で、だ。話は君の治療のところに戻る。わたしの応急処置によって、君は命の危機は免れたものの、そのまま順調な回復とはいかなかった。
『食事を取れ』といえば取る、『表を走ってこい』と言えば走ってくるが、命令しなければ動かなかったし、会話もしなかった。自発的な行動を何一つ取れなくなっていた。茫然自失というか、腑抜けというか……『我』が戻らなかったんだ。これも『数字の海』の影響なのか――
推測するに、『モノを思い出して、次の行動を決める』という、脳の中のごく一部の機能が、かなり弱くなってたんじゃないかと思うんだ。完全停止はしていないから、外部から強めに呼びかけると動けるものの、自力では何ら行動を起こせない。記憶野がゴミデータに長期間圧迫されたせいで、脳の連携機能のそこかしこが、上手く動作しなくなっていた、と。わたしも専門家じゃないから、正確なところはわからないがね。
実際、君、自分がそういう状態にあったこと、全く覚えていないだろう?わたしの推測が的外れだったとしても、脳が何らかの機能不全を起こしていたのは確かだ」
「……」
全く覚えていない。こうしてキリンに当時のことを教えてもらって尚、心当たりが浮かばなかった。
それが逆に、キリンの話の信憑性を高めていた。二年前に借金取りに捕まってから、キリンに借金返済を命じられるまでの期間のことが、いくら思い出そうとしても思い出せない。その理由としては辻褄が合っている。
もっとも、キリンが精神操作呪文――ヒトの記憶を自在に操る術を持っていることは、二日前にわかっている。キリンが都合よく俺の記憶をいじっている可能性は否めない。
――とはいえ、本当に記憶をいじられていたとして、別に対抗手段があるわけでもない。警戒するに越したことはないが、考えこんでも無駄な気がした。
キリンの独白は続く。
「身体が回復しても、自我が戻らないことには社会復帰も難しい。わたしもアジトでの暗殺が失敗した以上、呪術王の後を追わないとならない。だから、このままつきっきりで看病するわけにもいかない。
そこで、だ。一計を案じた。自我喪失した君を嫌でも奮起させ、なおかつ、わたしが自由に動けるようにする。そういうショック療法を、さ」
「……それが、『三億ゴールドの借金返済』?」
「そうとも。君が植物状態になる前の記憶は、ちょうど『借金取りに捕まった』という状況で止まっていたから、そのシチュエーションを利用することにした。
条件としては、君が自発的に大きなアクションを取らざるを得ない、強制力のある環境であること。次に、わたしの『キリン』としての立場を教えず、君を緩く監視、および治療の経過観察ができるポジションが取れること。第三に、君が持つ『数字の海』をエサにして、呪術王カワキを釣り出せるような話題性があること。これらの条件を満たせるような関係を偽装するには、『債務者と借金取り』という設定が好都合だったんだ。
三億ゴールドという、膨大な借金を背負った自分。傍らには、借金を返せと迫る怖ァい女。万が一返済できなければ、死んだ方が楽なくらいのひどい目に遭わされる。狼狽する青年は、合法非合法を問わず、一攫千金を狙える危険なクエストに身を投じるようになる。裏社会の様々な仕事をこなすうちに、身体と精神が嫌でも鍛えられていく……と、概ねそんな筋書き。それがどこまで上手くいったかは、君の評価次第だね」
「――――――」
キリンの説明に、俺は絶句してしまった。
二年前、この小屋でメルトアに借金取り立てを宣言され。裏クエストに奔走し。良かったことも嫌なことも沢山経験して。
そもそもは自分の身から出た錆。その失点を取り返すために、自分の意志で走った――その全てが、キリンの筋書き通りに起こったことだったと。
なんと滑稽なのか。俺が努力したと思っていたこの二年間は、得体の知れない女の手のひらで踊っているだけのことだったのだ。
――お前、恥ずかしくないのか。
カワキの言葉がフラッシュバックした。こういう状況でなければ、自室に閉じこもってしまいたかった。
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