母は再び両手を左腰に添え、居合斬りの構えを見せた。わずかな隙も見せず、その右手が高速で抜き払われ――
俺はその居合を、自分の腕を挟んで受けた。びしりと重い衝撃が骨を震わせる。肋骨の隙間を狙ったと思われる一撃だが、胴体には届いていない。
やはり、素手で人体を切り裂くにも限度はある――思い切り力めば、ダメージこそあれ、腕を切断されるような攻撃にはならない。
母がピクリと眉を上げる。攻撃を見切られた焦りが見て取れた。
「オラァッ!!」と俺はわざとらしく雄叫びを上げ、大振りの右フックを放った。
母は難なく避ける。当てる気のない一発だ。俺と母の間に、半畳ほどの距離が開いた。俺は母を取り押さえるべく、タックルを仕掛けた。
急激に距離を詰める俺を見て焦ったのか、母は正眼の構えではなく、ボクシングの構えを取った。左前の姿勢で、右手を弓のように引き絞り――
――若き日の母は武者修行を通して、剣術のみならず様々な格闘技を習得していた。それらの技の中に、実にファンタジックな奥義が存在する。
全身の関節の回転を連結加速させた結果、その一撃は音の壁を破る。しなった鞭のような、パァンッという破裂音と共に相手を打ち据える正拳突き――俗に言う『音速拳』である。
グラサン越しの暗い視界が粉々に砕け散り、容赦のない色彩が脳髄に叩きつけられる。タックルを仕掛けたはずの俺の身体が正反対の方向へ弾き飛ばされ、地面を滑る。
ずざーーーーっという派手な擦過音と共に、背中がゴリゴリと削れて出血するのを感じた。遅れて、口の中に血の味が溢れる。強烈な一撃は、俺の鼻柱をぼっきり負っていた。
脳内を苛む激しい火花をそっちのけにして、いい天気だな、という場違いな感想が漏れる。見れば、空は雲一つない快晴であった。
音速拳の衝撃で逸れた意識が、はたと正位置に戻る。今は戦いの最中だった。がばりと地面から起き出し、母を探した。
母は右手を抱えてうずくまっていた。見ると、俺の顔面と正面衝突した衝撃だろうか、皮膚が破けてどくどくと出血していた。怪我を負わせる覚悟のなかった俺は血の気が引き、あわあわと狼狽えた。
ひとまず包帯を取り出し、巻き付けようとする俺を左手で停止し、母は小声で何かを唱えた。パァッと緑色の光が溢れ、右手の傷が少しずつ埋まっていった。ホイミ<治癒呪文>の光だった。
呪文使えるんだ……とポカンと見つめる俺を、憮然とした表情で見つめた母は、
「……やっぱ無理かあ」
と、呆れたような、寂しいような顔で、ふっと笑った。そして両手を上げ、ひらひらと気怠げに振りながら、短く言った。
「降参」
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