以下、バアルゼブルの手記より抜粋
私は今まで、自分の行いが正しいものとばかり信じていた。
それによって失った物、去って行った人が出てきてようやく自分が正しいと思っている事が、相手にとっても正しい事とは限らないことに気がつかされた。
子供でもわかる事だと思うかもしれないが、実際のところ、大人でも完全に理解できる人はいないと私は思う。
自分が信じているものを否定される事は、自分の存在を否定される事と変わらないからだ。
しかし、同じものが一つもないのが自分の信念や信条というもの。
たとえ似通った信条同士が出会ったとしても、どこかで矛盾が生まれたり、いがみ合ったりしないとは言い切れない。
他の人には間違ったものに見えたとしても、自分がYESと言えばそれは自分の中での真実になる。
人の数だけ真実があり、立場によって善と悪は変わる。
ならば何が許されて何が許されない行いなのか、簡単に決められることではない。
私は正直、自分が正しいのかそうでないのか迷っていた。
良かれと思ってやった事が、大切な人を傷つける結果を招いた事もあるからだ。
そんな中、ある信条が私の目に留まった。
アサシンクリードというゲームに登場する暗殺者の集団。
「アサシン教団」の信条、
真実はなく 許されぬ事などない
見かけだけでは、何をしたって構わないという意味になる。
しかしこの信条にはちゃんとした意味も存在する。
真実はなくとは、「社会の基盤はぜい弱であり。我々は自分自身の文明を守り、育まねばならぬ」という意味であり。
許されぬ事などないとは、「行動をするのは、自分自身。そして、その行動の結果が悲劇でもそれが人生」と言う意味である。
私はこの信条に不思議と共感できた。
自分の起こした行動を後悔するよりも、自分の行動によって自分が何を得て、何を失ったのかをずっと覚えていたほうが今後のためにもなり、失った人のためにもなるかもしれない。
「他人の思想や固定観念に囚われず、この世をありのままに見て理性的かつ広い視野を持って判断せよ」
そのような思いが込められていているようだ。
私が今後どうしていくかのヒントになりそうなのでここに書き記す事にした。
ゲームが違っていたら私もアサシンになっていたかもしれない。
(以下中略)
続く