(写真はイメージ画像ですらありませんが貼っときます)
そこに愛があるかないかでこうも変わってしまう感情の動きについて考えてみる。
愛と言っても好き好きラブラブ愛してる!!の発情的愛情では無く、情愛というか親愛というか。ここはそうだな、友愛と言っておこうか。
友愛と言うと昔ポッポ-鳴いていた短期連載の政治家みたいに感じてしまうが、いやさ、友愛という言葉自体に罪は無いのだ。
友を愛するのか、友として愛するのか、友のように愛するのかでまた色々意味が違うかもしれないが、友としての愛情と言うのが良かろう。
まず第一に友という存在だ。友達と赤の他人の間にあるのは「特別扱い」である。
君は特別な人だ、大事な人なのだ。と感じるからこそ友なのだ。
しかし自分の思い込みで相手を特別だとまつりあげ、実際の姿が思い込みと違ったからと失望したり、裏切られたとがっかりしたり、と言う事もまぁ良く聞く話ではある。
それもこれもそこに愛があったが故の失望なのだ。
愛があるかないかで受け取り方がまるで変わる。
例えば仲の良い人が言えばこんなに面白い冗談も、赤の他人が聞くとなるとハイハイ内輪受け乙。となったり、白チャットで大騒ぎしてなんて楽しい時間!と思う傍ら、赤の他人にしたらうるせぇな自己顕示欲の強いガキどもめ。なんて受け取られ方をしたりもする。
仲良く撮った写真での悪ふざけも、赤の他人が見たら目も当てられない惨劇かもしれない。
まぁ何が言いたいかというと、客観的な視点でね、己をね、顧みることも大事ってね。
愛が無い相手が見たら、うわぁ…それ引くわぁ…。なんて目に遭わないように気をつけて生きていきたいものである。
いやだから愛!あるから!マジで!!そこにあるのは百合愛。
ちょ、待って引かないで!!!
っあーーーーー!