第一話 神を祀る山
アクロニア山脈――それは雲すらも貫く霊峰にして、古の三闘士が山神イプチャルと盟約を結んだと伝えられる、伝説の地。
岩を削るような冷たい風が吹きつける中、三つの影が山道を登っていた。
「うお……これが“山”ってやつかよ。まったく、地面が恋しくなるぜ」
バロムが苦笑まじりに呟き、大槌を肩に担ぎ直す。鍛え上げられた腕でも、急峻な岩場は容赦なく体力を奪っていく。
「でも、空が……すごく近い」
リクがふと立ち止まり、空を見上げる。そこには、雲一つない透き通るような青が広がっていた。地上では感じられなかった静謐さに、彼の心が吸い込まれていく。
だが――
「この山には、山神イプチャル様がいます。かつて、三闘士に加護を与えた神です」
静かに語るセリアの声が、風に乗って流れる。その横顔には、いつもの穏やかさとは異なる、どこか遠くを見るような陰りが浮かんでいた。
リクは、その変化に気づく。
「……セリア、どうしたの? 顔色、よくないよ」
「え? あ……ううん、大丈夫。ただ、ちょっと寒いだけです」
セリアはそう答えて微笑むが、その笑みはどこか張りついたように見えた。
バロムも眉をひそめる。
「ほんとに平気かよ? なんか、変なもん背負ってるような顔してんぞ」
「心配しすぎよ、二人とも」
セリアはそのまま歩き出した。だが彼女の黒髪が風に揺れるたび、背中から落ちていくのは“平静”という名の仮面のように思えた。
山腹を越え、彼らはついに目的地――祭壇の石段へと辿り着く。
その頂に構えるのは、時の流れに削られながらもなお神聖さを放つ石造りの拝殿。
誰が手入れしたのか、苔も少なく、清められた気配が漂っていた。
そして――
「よく来たな、継承者たちよ」
大地が鳴動するような声が、空より降り注ぐ。
三人が見上げる先、岩と霧と雷からなる巨大な姿が顕現した。眼光は雷鳴を孕み、声は魂の底にまで響く。
「我が名はイプチャル。三闘士が盟約を結びし山の神である。今より、貴様らに“証”を問う」
その言葉とともに、空から三つの鉱石が降りてきた。
それは透き通る銀の輝きと深い蒼を宿す、伝説に謳われる《イプチャルの石》――神鉱石《オリハルコン》。
「おいおい、神鉱石といやぁ、伝説の鉱石だぜ」
バロムが驚きを呟く。
伝説の鉱石が、いま彼らの掌にある。
「その石に、己が魂を刻め。お前たちが、何のために戦うのか――それが証となる」
リクは、そっと両手で鉱石を包み込んだ。
「僕は……守りたい。大切な人たちを、仲間を。もう……誰も、失いたくないんだ!」
その瞬間、リクの石がまばゆく光り出す。勇気と決意が形となり、山を照らす。
次に、バロムが一歩前に出て目を閉じる。
「俺は……力を、正しく使いたい。もう、後悔しねぇために」
バロムの石が紅蓮の炎のように輝き出す。それは鍛冶の火と、揺るがぬ鋼の意志の象徴。
そして――
セリアが静かに石を見つめる。
彼女は目を閉じ、唇をかすかに震わせた。
(私の願いは……)
だが、石は――沈黙したままだった。
何の光も、反応も示さない。
イプチャルの瞳が、冷たく細められる。
「セリア。汝には、加護を授けられぬ」
「……え?」
セリアが言葉を失う。
「汝の心に偽りあり。偽りを抱く者に、未来を託すことはできぬ」
その言葉は、雷よりも鋭く、霜よりも冷たかった。
セリアは微かに笑みを浮かべた。
だが、その笑みはひどく遠く、ひどく寂しいものだった。
「……そう、ですか。やっぱり、私は……」
その先の言葉を飲み込み、セリアは静かに目を伏せた。
リクがそっと手を伸ばす。だが、彼女の肩はわずかに震えるばかりで、何も語らなかった。
イプチャルは沈黙のまま霧とともに姿を消す。
拝殿に残されたのは、冷えた空気と、揃わぬ三つの影だけだった。
――そして、旅路の空気は、静かに、しかし確かに変わり始めていた。