『胃袋を掴む』という言葉があるが、最近になってオスシはその真意に触れた気がしている。
深淵を覗くときまた深淵も何とやら。
掴んだのはこちらのみならず、相手もまた然りなのだ。
姉の得意料理の一つであるアサリの酒蒸し。
もとより味を引き締める為の隠し味に鷹の爪の輪切りをほんの1つ2つ入れていたところ、時折、丸1本分入れてピリリと辛く仕上げる日がある。
決まってその夜には、あの人が訪ねてくるのだ。
そこで鬼あさりを使ってみることを提案したのは、オスシなりに姉を応援したいという想いからである。
あさりを名乗る通り、鬼あさりはあさりに良く似ているが、ふくよかな丸みと貝殻のギザギザで判別はまあ容易い。
あまり流通量の多くないマイナーな貝であるが、鬼を冠する所以となった胡椒のような辛味を持つというそれは、強い酒のアテには最適に違いない。
貝こそ違えど流れは同じ、慣れた手つきであっという間に酒蒸しは仕上がった。
「さ、食べよっか」
「…え?かげろう様が来るのでは?」
深めの皿に茹で汁ごと移しかえながら、さらりと姉の口から飛び出した言葉にオスシは面を食らってしまった。
手に入った鬼あさりはごく少量で、使い切ってしまって余りはない。
「え?別に今日その予定はないけど。かげろう様から何か聞いてるの?」
「あ、いや、特に何も……」
「ん?そう?ま、いいや、それよりほら、早く食べちゃわないと、ヤマが嗅ぎ付けるよ」
半ば押し付けられるように箸を握らされ、勢いに呑まれて皿に目を落とす。
パカッと口を開いた貝殻の間に覗く身は、なるほどあさりと相違ない。
しかしまず目を引くのは、あさりの酒蒸しとは比べるべくもないほどに濃く白濁とした煮汁である。
いなりはもちろん、オスシもそこまでは調べが及んでいなかったが、その白磁のような色味の正体である旨味成分のコハク酸を鬼あさりは非常に多く含んでおり、良い出汁のとれる食材としても有名なのであった。
貝殻を匙代わりに煮汁をすすれば、深い旨味が口いっぱいに広がる。
続いて頬張った身の方は、火が通ってなおプリプリと柔らかで食感が良く、別名しびれ貝とも呼ばれるほどの辛味を感じない。
誇張した表現だったかと油断し、続けて2つ目を口にしたオスシは目を見張った。
「わ、これはなかなか……」
産地は同じはず、無論、傷んでいるという訳でもない。
しかし1つ目と違い、ほろ苦さと確かな辛味があり、同じ貝とは思えないほどの隔たりである。
「ん~、バラつきがあるんだねぇ。どういう違いから来るんだろ。不思議」
姉もまた辛味に行き合ったらしく、新鮮な驚きをその顔に貼り付ける。
ニコニコと箸を進める姉の様子を見つめ、オスシは先ほど感じた苦味を反芻していた。
あの人がいつの日かもう一人の義姉になる未来を、自分はすっかり手放しで許容したものと思っていた。
でもそれは良しとしても、心の何処かに、いなりが遠くへ行ってしまったような寂しさがあったのだろう。当たり前のように自分に振る舞われた鬼あさりの酒蒸しは、そんなことはないのだと優しく包み込むような甘さと、まだ姉離れが出来ない己の幼さをチクリと刺すような辛味をはらんでいた。
「…あ!!!何それ!?つまみ食い?いな姉もスシ姉もズルい!」
「ほら見つかった…」
流石の嗅覚というべきか、いやこれだけ香り立っていれば、さもありなん。
「大人の味だから、ヤマにはまだ早いわ」
「そんなことないもん!」
口ではそうは言いつつも、オスシはヤマにも箸を手渡してやる。
ふと気付けば偶然にも皿の上には鬼あさりがあと4つ、二人占めしようと目論んでいたが、結果仲良く三等分である。
「また手に入ったら、あの呑兵衛にも作ってやるかな」
「これだけ出汁が美味しいんですから、味噌汁なんかも良いかもしれないですね」
「…それだ!ありがとね、オスシ!」
「おっ、いな姉、これ辛っ!でも美味しい!!」
表情すらかしましく酒蒸しを味わう末妹の様子を、いなりは柔らかな笑みを浮かべて見守る。
その横顔に、オスシの胸にあった一抹の寂しさはすっかり洗い流されていくのであった。
~完~