世間で酷評される理由について、ネタバレを避けつつも、気になる部分を指摘してみます。
引用元のリンクは最後に示します。
>脚本の山崎貴は4年前からたびたび本作の映画化を持ちかけられ、「これぞというアイデアが出るまでは映画化はできない」と答えている。
>単にゲームの副読本になったり、ゲームのシナリオをなぞるだけの映画化であればやる必要がない、と。
これこそが根本的な勘違いでしょう。
TVドラマ化や映画化で、原作から変更された作品のほとんどは劣化します。
私が見た多くの作品では、変更で良くなった作品を見たことが一度もありません。
尺の長さや放送スケジュール、予算、役者の確保等の都合でやむなく変更をせざるを得ない場合もあります。
映画版DQ5の主要な変更部分は、そうした都合では説明がつきません。
観客第一に考えるなら、最も重要なことは良い作品を作ることです。
原作に忠実に作るか、変更するかはその手段に過ぎません。
変えることで良くなるなら変える、変えない方が良いなら変えないという臨機応変な判断が求められます。
観客第一に考えていないなら、それは作り手の自己満足の押し付けであり、商業作品としては論外です。
作品の評価が客観的にできないなら、良い作品など作れるわけがありません。
原作に忠実に別のメディアで表現することは、決して容易な作業ではありません。
元の作品は、そのメディアという窓を使って、作品の中の世界を表現したものです。
その目に見える窓から、目に見えない部分の中の世界を読み解かなければなりません。
そして、その読み解いた世界を、変換先の窓に適した表現方法で表現するわけです。
それがちゃんとできる監督がどれだけいるでしょうか。
>本作はとにかく随所に「ファンは知ってるだろうからこの程度でいいだろう」という、それこそ「副読本」に甘んじた手抜きが感じ取れる。
これが事実なら山崎氏の言動には一貫性が見られません。
>本作では終盤も終盤、物語の全てをひっくり返す”超展開”がいきなり起こる。
これ以降に書かれていることを本当にやったなら「ゲームを、フィクションを、人生をここまで愚弄する作品」という評価は妥当でしょう。
というのも、これがドラクエ5の作品世界の全否定を意味するからです。
そして、そうまで入れるべき画期的なアイデアとも言えません。
何故なら、既に使い古されたアイデアであり、ドラクエ特有のものでもないからです。
主人公の名前でも訴訟を起こされていますが、パクリだらけでは救いようがありません。
この映画のプロットは事前にチェックされたのでしょうか。
どうして、こんな明らかな問題が放置されたのでしょうか。
>(前半略)が混在するオープニングにも首をひねらざるを得ない。
これはどうやら”超展開”の伏線らしいです。
確かに、後出しジャンケンを防ぐ常套手段として伏線が活用されます。
しかし、それは後出しを防ぐ手段であって、ジャンケンの必然性を説明するものではありません。
むしろ、今回のジャンケン、すなわち、”超展開”は挿入すべきでない強い理由があります。
にも関わらずに挿入したことは、伏線を入れた程度では言い訳にもなっていません。
入れるべきでないシーンのための伏線であるなら、そのために映画として不自然な演出を入れる正当性も成立しません。
>(前半略)とほぼ同じことを、5年前にしでかした作品がある。
>「○○○○○ ○○ ○○ ドラ○もん」というその映画のエンドクレジットでは(以下、略)
>
>この作品を監督したのは押しも押されもせぬ日本映画界のヒットメーカー・山崎貴と、同じく白組所属の八木竜一。
>偶然にも「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」の監督と同姓同名である。
このドラ○もんの映画は、原作の複数の話を合体させただけで、それらをスムーズにつなげる調整が十分に為されていません。
描かれるはずの主人公のの成長が描かれておらず、ヒロインに好かれる展開に説得力がない等の批判もあります。
そして、とある大きな新設定は、追加する必然性が全くなく、子供の教育上も問題があり、しかも、その作中でその設定が全くと言って良いほど活かされていません。
つまり、作品を良くするために必要な変更が十分に為されず、逆に、作品を劣化させる大幅な変更が取り入れられています。
まとめると、このドラ○もんの映画で良い所があるとすれば、そのほとんどは原作にあった要素です。
逆に、悪い部分のほとんどは、原作から変えた部分です。
過去作品の評価を調べていれば、丸投げなどとてもできないはずですが…
ねとらぼの記事(ネタバレ注意)
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1908/10/news008.html