直近2回の日誌で映画版DQ5について書きましたが、やはり、ネタバレなしでは言いたいことの半分も言えないようです。
なので、今回は【ネタバレ】をつけてネタバレ前提で話をします。
細かい部分を抜きにして、ユアストーリーの最もダメな所は最後のオチでしょう。
例えば、ディズニーランドのファンの人に向けて「ミッキーの中には人が入っている」と言うことに何の意味があるのでしょうか。
同様に、ドラクエのファンに向けて、それが架空の物語であると言うことに何の意味があるのでしょうか。
そんなこと、他人から言われなくても当然分かっています。
分かった上で知らない振りをして楽しんでいるのです。
知らない振りをしないなら、架空の物語をその世界の外部の人間として俯瞰することにになり、それではあまり楽しめません。
知らない振りをすることで、架空の物語の世界の中の住人になりきって楽しむことができるのです。
ドラクエが2Dだった頃は、大部分を想像で補完しなければならなかったため、想像での補完を要する要因が多少増えても、大勢には影響がなく、知らない振りの邪魔にはなりませんでした(100に10を足しても1.1倍にすぎない)。
しかし、3Dで表現されるようになって、想像での補完がごくわずかで済むようになったため、わずかなノイズでも知らない振りの邪魔になるようになりました(1に10を足すと11倍)。
ゲーム画面ではない実際に体験できるレジャー施設では、わずかなノイズでも知らない振りの邪魔になります。
だから、ディズニーランドでは、そうした知らない振りの邪魔になることはスタッフが徹底的に排除するよう務めています。
それなのに、赤の他人が、どうして、その知らない振りの邪魔をしなければならないでしょうか。
夢だと分かって夢を楽しんでいる人に、それが夢だという現実を叩きつけて無理やり現実に引き戻さなければならない理由は何でしょうか。
ユアストーリーはドラゴンクエストのタイトルをつけた映画であり、ドラクエのファンに向けた宣伝を行なっていることは明らかです。
だから、ユアストーリーが、ドラクエのファンに向けて、それが架空の物語であることを指摘していることは言うまでもありません。
と言うと、ユアストーリーはゲームを否定しておらず、肯定するメッセージを発していると主張する人がいます。
しかし、それは次の理由により何の言い訳にもなっていません。
(1)ユアストーリーには、そうしたメッセージ性は全くない
(2)そうしたメッセージを発する必要性が全くない
(3)そうしたメッセージ性があったとしても、ドラクエでやる必要はない
そうしたメッセージを発しているとの主張が成立するためには、【ユアストーリーの出来事=ゲーム内の出来事】設定は前提事項でなければなりません。
しかし、本当に前提事項なら、最初から明示すれば済むことです。
隠しておいた真相を終盤に披露するのは、意外性を狙っているからででしょう。
つまり、この設定はオチであって前提事項ではありません。
そして、そのオチが使い古された手垢塗れの「素人にも簡単に想像できるネタ」であることは既に指摘しました。
また、ゲームを肯定するメッセージもどこにもありません。
それは、早朝の日誌にも書いた通り、対立に決着がついていないからです。
結論の出ない対立を示しただけであって、特定の主張を肯定するメッセージ性は認められません。
そもそも、今の時代に、そうしたメッセージは必要でしょうか。
ゲームライターの渡邉卓也氏は、その点について「深い」と「不快」を掛けて「ふかい愛」と表現しています。
https://jp.ign.com/dragon-quest-your-story/37548/opinion/
そして、仮に、そうしたメッセージ性を認めても、ドラクエでやる必要は全くありません。
例えば、光のお父さんでは、最初から設定が明示されていますし、題材としてそのゲームを選んだ理由も明確ですし、時代錯誤の「ふかい愛」もありません。
比べると、ユアストーリーはそれらいずれにおいても全く逆を行っています。
ユアストーリーは、使い古された手垢塗れの「素人にも簡単に想像できるネタ」をドヤ顔で披露するためだけに、ドラクエのファン(お金を払って映画を観に来た観客でもある)を無理やり現実に引き戻して不快感を煽っているだけです。
製作者の低俗な自己満足のためだけに、ドラクエのファンに嫌がらせをしているのです。
だから、早朝の日誌では、映画製作者自身こそが「大人になれ」と書きました。
製作者「大人になれ」
視聴者「お前がな」