私の名前はさとみ。
高校を卒業し、春から社会人になったばかりだ。
今は父と二人で暮らしている。
母とは――もう一緒には住めなかった。
それは、ほんの些細なきっかけだった。
中学生のある日、どうしても欲しいものがあって、母にねだった。
その瞬間、母がこちらに向けた視線――
あの、得体の知れない、薄暗く、冷たい目。
言葉にはしなかったけれど、まるで「私もずっと我慢してるのに…」とでも言いたげな、怨念めいた圧。
怒っていたわけでも、泣いていたわけでもない。
それなのに、私は本能的に「これ以上踏み込んではいけない」と悟った。
以来、母には本当に欲しいものや夢を打ち明けられなくなった。
そのくせ、ちょっとしたわがままはあっさりと通る。
「お菓子買っていい?」とか「友達と寄り道していい?」なんて、そんな程度なら、笑顔でうなずいてくれる。
あのときの不気味さはどこへ行ったのかと思うほどに。
それでも私は怖かった。
どこに境界線があるのか、わからないまま日々を過ごした。
まるで地雷原の上を裸足で歩いているような、そんな息苦しさ。
そして、あの家族も静かに壊れた。
私が高校を卒業する頃、両親は離婚した。
理由は聞いていない。母からも、父からも。
でも私は迷わなかった。迷えなかった。
“あの視線”の奥にあるものが怖くて、母と一緒に暮らす気にはどうしてもなれなかったのだ。
今、父と二人、穏やかな生活を送っている。
派手ではないけれど、安心できる日々だ。
それでも、夜、ふとした瞬間に――
あのときの母の目が、夢に出てくることがある。
鏡に映る自分の目に、その片鱗を見つけるたび、
私はまた少しだけ、母に似ていくのかもしれないと思う。
それが怖いと感じる自分も、また私だ。