前回の続き。
https://hiroba.dqx.jp/sc/diary/231529396884/view/5291427/
一方、「よーすぴ散歩」。
よーすぴ散歩の興味深い点は、
「地方に行く」(中央や主要都市ではやらない)
「地方でもさらに、地方中心都市をわりと避ける」(札幌ではなく函館)
「その地方の居住者に参加権を与え、遠征組は抽選から落とす」
中央を避けて、なるべく周辺のユーザと交流しよう、という企画になっている。
これも座談会と同じで、ユーザーを減らさないためのムーブだと考えると、納得がいく。
実際に会って、一緒にゲームをプレイすれば、知り合い感覚が出るでしょう。
ドラクエ10が、「遠い東京で知らない人が作ってるゲーム」から、「私あの人に会って一緒に遊んだこともある。知り合いのあの人が作ってるゲーム」に変わる。
想像だけれど、おそらく、
「ネットゲームから人がいなくなっていくとき、まず地方の周辺区域に住んでいる人たちがやめていき、そのあとで、だんだん人が少なくなってきたなあという実感によって中央在住の人々がやめていく」
というデータか、経験則があるのだと思う。
(これは私の個人的な経験からいっても納得できる話だ)
なぜ、地方から順に歯抜けになっていくのだろう。
それは、イベントがだいたい常に東京や大阪で行われ、重要な発表や体験会が、常にそこで披露されるからだ。
ネットゲームは、どこに住んでいるかを問わずにプレイできるゲームだが、にもかかわらず、
「大事なことは、いつも、東京や大阪で起こっている」
という感覚を、地方の人々はどっかうっすら持っている。
(少なくとも私は、地方のどいなかの農村育ちなので、そういう感覚がある)
重要なことはしらないうちに都で決まり、自分たちは、遠くで起こっていることを、人づてに受け取るだけだ。
このゲームも、遠くで作られて、遠くから送られてくるものだ。
距離というのは、気持ちを遠ざける。
なんか、気持ちも遠いし、もういいや。
というふうに思うタイミングが、地方在住者のほうが早いのだと思う。
これが大阪なんかに住んでいると、わりとしょっちゅうイベントがあるし、ステージ上のPやDを生で見られる。「自分に近いところにあるゲーム」という感覚を持ちやすい。
東京にいたっては、「スクエニって新宿のあのへんにあるんでしょ」くらいまで感覚が近くなる。「このゲームご当地で作られてる」という感覚を持てる。
だから、長期にわたってゲームへの興味を維持しやすい。
さて、ここまでの議論をOKとすると、ユーザー数を維持したい運営が、照準を合わせるべき箇所は明白だ。
地方在住者、しかも、地方中心都市ですらない場所に住んでいる人を、なるべくやめさせないようにする。それがユーザー数を維持する秘訣だ。
そのためにはどうすればいいだろう。
作り手と遊び手が会えばいい。その両者のあいだに、「こないだ会って遊んで知り合いになりました」という幻想が生じればいい。
だって、「ライブに行ったら、あのミュージシャンのファンをやめにくくなった」っていう気持ち、普通にあるでしょう?
だから、地方オンリーのイベントを打つ。招待制にし、都心部からの遠征組を意図的に排除する。イベント内容も、「このゲームで私たちと遊びましょう」というものにし、さらには、「この土地に住んでる皆さんの生の質問に答えましょう。それによって、最速の情報をさしあげましょう」というバリューを提供する。
本質的に広報だからこれができる。アーティストの地方遠征ライブも、根本的には「ユーザの忠誠心の維持」のために行われているのだが、しかし「集金して黒字にする」という大命題があるために、どうしても多くの人々が来場しやすい主要都市メインになってしまう。
ところがよーすぴ散歩は広報だから、そもそも参加料が無料。どっかの公民館を押さえておけば、あとは交通費だけで出来てしまう。
だから、主要都市開催に縛られないですむ。
この議論に即していえば、主要都市にアクセスできる人々は、比較的やめにくい人々だ。今回リーチすべきなのはそこではない。
この企画は、場所と人と、ネットとパソコンがあればいいのだから、やろうと思えば離島でだって開催可能である。
もちろん、じっくりユーザの話を聞けるという大メリットもある。その話を聞くユーザを、意図的に地方在住者から選んでいるということなのだ。
一言で言ってしまえばそれだけのことなのだが、でもこれは大発明なんじゃないかなあと私は思ったのです。たぶんこういうことを思いつくのはよーすぴさんだと思うのだが、この一事をもってしても有能さは疑いようがない。