潮騒というものは、不思議なものじゃな。
わしがリアルの旅へ出ておる間も、どこか耳の奥で波の音が続いていた。
宿の窓を開ければ、そこは山の景色じゃというのに……
それでも、風の中にほんの少し潮の香りが混ざっておった気がする。
旅の帰り道、ふとポケットを探ったら、あの“青い貝殻”が出てきた。
海に落ちた日に、手の中に残っていたものじゃ。
持ち帰った覚えはない。
けれど、確かにそこにあった。
──帰る時が来たんだね。
あの日、海の底で聞いた声が脳裏をかすめる。
わしは首を振った。
疲れておるだけじゃろう、と。
そして今日、久方ぶりにアストルティアへ戻った。
ログインした瞬間、画面の向こうの空気が澄んでおる気がした。
いつものゴブル砂漠西。
いつもの砂浜。
なのに、何かがほんの少しだけ違う。
潮のにおいが、深い。
「ロトさん、旅行おかえり!」
「海、また行くの?」
「とと丸リベンジだね!」
チムメンたちが声をかけてくれた。
その温かさに、胸が少し締めつけられる。
わしは笑って返した。
「おう、しばらく海とは縁が続きそうじゃ。」
竿を構え、糸を垂らす。
浮きが静かに揺れ、波が細かく寄せては返す。
見慣れた景色のはずなのに、目が離せなかった。
光が一筋、海面に落ちて伸びていく。
それを眺めておると、胸の奥がじんわり温かくなる。
懐かしさに似ておるが、思い出せる記憶はない。
「ロトさん、その髪……色、変わった?」
「なんか雰囲気違うね?」
そう言われて、わしは少し驚いた。
姿はエルフのままじゃ。
角も耳も、見慣れたまま。
だが、光の当たり方で色が淡く見える瞬間があった。
「旅の疲れじゃろう。たぶん。」
そう答えながら、胸の奥に小さな波紋が広がった。
風が吹き、髪が揺れ、
その一瞬だけ、海の底で漂ったあの感覚が蘇る。
わしは深呼吸した。
潮の匂いが肺に入る気がした。
錯覚かもしれん。
だが、心地よい錯覚じゃ。
その夜、家に戻ってランプを灯し、鏡を見た。
髪が光を受けて淡く揺れている。
水に濡れているわけでもないのに。
貝殻を手に持つと、かすかに温かい。
耳に当てると、波音がした気がする。
いや、気がするだけじゃ。
まだ、何も変わっておらん。
わしはベッドに横たわり、目を閉じた。
するとまぶたの裏に、青い光が揺らめいた。
海。
光。
泡。
影。
──まだじゃ。
──今ではない。
確かに、そう聞こえた気がした。
目を開けると、部屋は静かで温かい灯りに包まれていた。
夢だったのかもしれん。
だが、胸の内側に小さく波が残っておった。
わしは笑った。
「潮騒というものは、人を惑わせるものじゃな。」
まだ、転生などせん。
姿も変えん。
ただ、少しだけ波が寄せてきておるだけじゃ。
明日も海へ行こう。
浮きが沈むかどうかは分からん。
とと丸が釣れるかも分からん。
だが、この揺らぎがどこへ向かうのか……
それを確かめたくなっておる。
潮のにおいがする。
静かで、深くて、ほんの少しだけ近い。
──大魔王ロトシオン、まだ岸に立つ。
波は、少しずつ足元へ寄せてきておる。