シェイン!
シェイン!
シェイン!シェイン!シェイン!
という訳でやって来ましたシェイン・マクマホン集会!
え?シェイン・マクマホンを知らない?という訳でシェイン・マクマホンについてまずは理解を深めましょう。
シェイン・マクマホン(Shane Brandon McMahon、1970年1月15日 - )は、コネチカット州ハートフォード出身の実業家。シェイン・O・マックのニックネームを持つ。WWEオーナー・ビンス・マクマホンの息子であり、かつてはWWEのグローバルメディア部門の副社長を務め、WWEのバックステージ、テレビ番組両方に関わっていた。
1993年にボストン大学を卒業した後、父ビンスが経営するWWE(当時WWF)へ入社
マクマホン一家のストーリがWWFの前面に押し出されるようになるにつれ、WWFの番組、試合に登場するようになる。1999年には父親のビンスやロックと組んでヒールのユニット「コーポレーション」を結成。ストーン・コールド・スティーブ・オースチンと抗争を行う
2001年にはWCWのストーリー上のオーナーとなり、同じくストーリー上のECWオーナーである妹のステファニー・マクマホンと結託。WCW / ECW連合軍(アライアンス)を率い、WWFとの抗争を行った
2003年にベビーフェイスとしてケインとの抗争でアンフォーギヴェン、サバイバー・シリーズに登場して以降はレスラー活動は控えていたが、2006年より再開
2005年2月さいたまスーパーアリーナ大会では、11月の記者会見や、直前に開催されたロイヤルランブルで負傷した父ビンスの代理として来日。10月、WWEのテレビ番組であるRAWの放送局がUSAネットワークに戻った際の特番『WWEホームカミング』に登場。ただし登場してすぐにストーン・コールド・スティーブ・オースチンからスタナーを受けてダウンさせられた。11月、サバイバー・シリーズ後のRAWに登場。エリック・ビショフとGMの座を巡って抗争を開始したが、エリック・ビショフ解雇後は、父ビンスと親子ヒールとして活動。
2016年4月3日、Wrestle Mania 32にてジ・アンダーテイカーとヘル・イン・ア・セルでの対戦を実現。序盤にはヘル・イン・ア・セルでありながら関節技の応酬となるが中盤より金切りバサミで金網を切っているところにテイカーに抱えられて突き破られ場外戦へと展開。工具箱やモニターでテイカーを殴打後、約6メートルある金網の上から実況席に横たわるテイカーへのエルボードロップを投下するが避けられ誤爆。大ダメージを受けるとリング内へと連れ込まれ、ツームストーン・パイルドライバーを決められ敗戦した
シェイン・マクマホンの半生より一部抜粋
要するに、わしの娘であるゴリ・・ゲホッゲホッ・・アンルシアみたいなものかのう?
血筋は良いのにゴリ・・いや、破天荒なところはアンルシアそっくりな奴じゃのう。
で、シェイン・マクマホンの得意技はなんじゃ?
リープ・オブ・フェイス
いわゆるダイビング・エルボー・ドロップ。シェインの場合、リングサイドの実況席に横たわる相手に向かってコーナートップから飛ぶことが殆どで、リング内に向かって飛ぶことは少ない
で、そのシェイン・マクマホン集会とやらに行って来たという話しを聞かせてもらおうかの?
時は3月21日、ヤクルトスワローズの嶋骨折の悲報がヤクルトファンでありシェイン・マクマホン集会の開催主の【みぎまゆげ】さんを襲った日。
リープ・オブ・フェイス
いわゆるエルボー・ドロップを凄い高さからかます技
これをジュレットの高台から下の机の上に華麗に決める集会です
これを参加者がやるのです
リングネームを各々言いながら、みぎまゆげさんと会話を愉しんでから、一言何か言葉を決めて"リープ・オブ・フェイス"を下に置いてある机に向かって決める、はずでしたが、机さんの人がモルディブに旅に出てしまった為、机不在の
リープ・オブ・フェイスを決める羽目に
クソイベ欠席の最大の理由がモルディブに旅に出るという事は良くある事なので、皆様納得していました
この全身複雑骨折不可避のクソイベは広場には告知は無くて、一部のマニアにしか見つけられないイベントでしたが、流石マニアの皆様です
みぎまゆげさんとの心の触れ合いをねっとりと堪能してからの"リープ・オブ・フェイス"は心まで全身複雑骨折不可避でした!
また、みぎまゆげさんが何かやるそうですのでねっとりとお待ち致しております!
因みに、みぎまゆげさんは過去イベントで
「ヤクルトスワローズ ドラフト1位指名 奥川恭伸くんの靭帯安全祈願集会」という非常にそそられるイベントをしていました。