自分はいつも思う。この美しい世界は完璧だと。どんな小さな生物もどんなに巨大な魔物であっても、皆世界そのものであり、その完璧な美しさを成しているのだと思っている。だから、世の中のほぼ全ての人間は、生きているだけで等しく価値があるのだ。たった一人、自分という存在を除いては。
ある日の夕刻、自分は村を出て高貴な方のお屋敷へ向かおうとしていた。村長を通じて、一人で出向くよう命じられていたのだ。

「どこへ行くんだ。」村の出口で不意に後ろから声を掛けられた。
――急ぐというのに面倒な奴が来た。
しかたなく立ち止まると一呼吸おいて振り返り、丸太のような腕を振りながら駆け寄って来る青年の浅黒く焼けた顔に向かって早口でまくし立ててやる。
「なるほど、君はうちの村の門番になったのか、それはおめでとう。それにしても、元服したばかりの歳だというのに素晴らしく早い出世だな。」
「さすがは蛇の者らしい皮肉った物言いだ。悪いがうちの家は警らの家系なんでな。お前のように怪しげな男を見かけて声も掛けずに見過ごしたんじゃ、不安で夜も眠れなくなるんだよ。」青年も負けじと言い返してくる。
「不遜な態度が虎の者の誇りというわけか。それでは恭しく退散することとしよう。」
早々に話を切り上げ立ち去ろうとしたのだが、青年は屈託のない笑みを顔中に広げると岩のような手を大きく拡げて肩をつかんできた。「もう一度聞くぞ。こんな時間からどこへ行くんだ。面白いことなら一枚かませろよ。」彼は自分にとって親友とも悪友とも呼べる仲であった。家は違い、体格や性格も全く異なるのだが、幼い頃から不思議と話しやすく、血のつながりが全くないこの村で気を許せる唯一の人間だった。しかし今日は事情が違う。
「大したことじゃない。ちょっとした小遣い稼ぎだ。すまないが勘弁してくれ。」
「ほうら、やっぱり面白いことじゃないか。ちょうど体を動かしたかったんだ。」
「残念だがいつもの用心棒ごっこじゃないんだ。――なら正直に言おう。明日の朝までに御屋形様のところに行かなければならない。」
そう告げた瞬間肩をつかむ友の手がこわばり表情が険しくなる。自分の呼ばれて赴く先が「御屋形様」のところだと聞いたからだ。御屋形様とは我々が仕える高貴な方の一族のことだ。峠を二つ越えた先の都にいらっしゃる。村ではその本当の御名前を口にするような無礼は決して許されず、御屋形様とあいまいに呼ぶことでさえ、場をわきまえ、身を正さねばならないとさている。村のどこかで「御屋形様」という言葉が出ただけで辺りは一瞬にして静まり返る。ただ、その時友人の顔色が変わった理由はそれだけではなかった。御屋形様のところへ出向くというのは何らかの任務を預かるということであるが、自分のような蛇の者が受ける隠密の任務は、大抵いつ命を失っても不思議のないような危険なものばかりだからだ。
「そうか、それは失礼した。――御武運を。」
友は肩に乗せていた手をゆっくり離すと、先ほどの振る舞いが嘘のように、深く頭を下げて恭しく臣下の礼をする。当然だろう。御屋形様に呼ばれた自分はすでに御屋形様ご自身の指先にも等しい。いや指先とは恐れ多い。爪の先とでも言うべきだろうか。
「有難う。」
そう言って友との味気ない別れを済ますと、村を出て、日が隠れたばかりの昏い山の中へ分け入った。