という本を読みかけているんだけど、
アルジャーノンに花束を はとても怖い恐怖小説だと感じていた。
最近ではおきてがみきょうこの事件簿というのもあるが
脳の高度機能障害によるいろいろな誤認識、時間間隔の欠落、学習障害、とか、全く普通の人に一見見えるのだがちょっとしたことができないのだが、それが人から全く見えず、または本人さえ自覚がないというとき不思議な現象が起きる。
アルジャーノンはフィクションだけど、そのまま脳の障害の体験と置き換えてみることができるなと思っていた。
手術でなく、毎日頭がさえたり、あるときはそうでないという作用がある障害が存在する。その人の感覚では、常にアルジャーノンの悲劇を感じているわけだ。その人からみたら、あの小説は恐怖小説に他ならない。
私の知人に、かなり頭がいい天才的な人なのだが、なぜかソースとしょうゆの瓶の外見の区別がつかない人がいた。毎日、何十年も間違えるのだ。
味はわかるから、間違えたとすぐ気づく。しかし、瓶の形が違うのに、毎回間違える。
この場合は、瓶に文字でソースと書けばよかったのだろうけど、家族は気づかないw その人がかなり頭がいいから、まさかそんなことがわからないと思わないからである。
それから、全く勉強がわからない人で、その人は体育の成績がよく、のこぎりもかなり使える。その人がある日、工作の時間に作った本立てを見たとき驚いた。まるで木片のオブジェのようなものができていた。
立体画像が全くわからないようなのだ。
周囲の人や家族は案外気づかない。悪いと思って言わないから。だから本人も気づかないことも多い。
それは幸せなのだろうか?
アルジャーノンに花束を、の主人公チャーリーは、そんな、自分が一回天才になって、それが衰えていくという恐怖を味わう。そういう病気で似たようなもので有名なやつであるからみんな知っているのだろうけど、
例えば方向音痴はどうなのだろう。なぜ毎回間違えるか、なぜ体育はできるのに他の勉強がいっさいできないのか。なぜ瓶の形を覚えられないのか。
日常に差支えない程度の間違いでも、積み重ねれば、そこから自分の脳がどういう塊でできないことがあるのか、能力が高い部分はどこなのか、手に取るように見ることもできるようになるんじゃないかと考えたりする。
日々観察と、あと、周りの人に聞くのも大事だろう。