「ちょ…。」
かいりもさすがに知っていた。その怖さも、危険性も、違法性も。ゆえに、ほぼ条件反射のように断ろうと思った。が。
「漠然と怖い。怖いという事しか知らないから。知識がないから。大麻と覚醒剤の違いさえ知らない。違うかな?」
「っ…。」
薬物によるメンタルケアは、前線に立つ兵士の常識だ。
士気の高揚。ショックの緩和。恐怖抑制。疲労鈍化。ペインコントロール。能力安定化。これらがもたらす効能は、戦場の兵士には極めて有益だ。但し、それらすべて、副作用の言い換えと言えるのだが。
現実でも、ベトナム戦争では実に約20%の米兵が、薬物の王様とも言われる最も凶悪な麻薬…ヘロインを使用したが、帰還兵の9割方が薬物の使用をやめ、依存症を回避できている。
麻薬の依存の問題は、麻薬そのものではない。麻薬に頼らざるを得ないほどの、極端かつ最悪の精神状況を誘発する環境。そこに身を置き続けるという事こそが問題なのだ。
まあ、殆ど出ないというのは、裏を返せば決してゼロではないという事でもあるが…。
「でもね、世界中のあらゆる戦闘員は…そんなリスクを承知で、薬物を使用するのだ。己の命や明日の希望を削ってでも、今日の戦局を有利にする。そういう覚悟がある。」
だがどちらにせよ、こんなものが戦場の兵士に蔓延る事を、テルキは許さなかった。実際、帰還兵のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は、現実でも根深い社会問題となっている。麻薬の恐ろしさは、依存症だけではないという事を、皆さんにも知ってもらいたい。
だから彼は、王立研究院を離れる前のたった1か月で、全ての覚醒剤に代わる香料を開発に心血を注いだ。
古代魔術、最先端医学。全てを総動員して、効能はほぼ同じでありながら、副作用が全くない香料を生み出してしまったのだ。
当然、その技術は業界を震撼させ、大絶賛され、それらは巨万の富と、あらゆる違法地下組織の根絶を成し遂げた。この時の縁で、他の違法業者に手を焼いていたライオウ達雷神会とは知り合った。
だが、最早彼にとってそんなものはどうでもよかった。得た富と権力全てを苦しむ帰還兵の復帰に宛がい、自分はその足で王立研究院を去った。
『理想論だと?当たり前だ!理想だから目指すのだろう!その結果辿り着けず現実的な妥協案に落ち着くならまだしも、最初から妥協をしてどうする!』
協力を渋った研究院幹部に放った言葉だ。実際、いつも冷静沈着な彼が明確に怒りを乗せて放った言葉は、後にも先にもその一回だけだ。その時の経験で…アヤタチバナはテルキについていくと決めたのだから。
「うーん…。」
一方、かいりは今だ迷い中だ。当然だ、麻薬の代わりの香水と聞かされては躊躇うだろう。
「ふむ…それではかいり君。具体的に考えてください。そうだね…君はぱにゃ君とマユミ君が一番付き合いが長いのだろう?」
「え、ええ。」
「では、二人の顔を見てください。」
「…?」
「一緒にこれから戦線を張る仲間だね。とっても愛らしくてチャーミングな妖精さんだ。
はい、では想像してください。できるだけリアルに。
今、かいり君の目の前で二人の心臓が貫かれました。」
空気が、凍った。
「二人は声すら上げません。明らかに即死です。
ショックを受けませんか?
動揺しませんか? 感情がブレませんか?
唇が震えませんか?
普通の兵士はそんな事で同様しませんよ。だって、その為の薬なのだから。
…すまない。少し、脅しが過ぎた。別に無理強いするつもりはないんだ。けど、せめて私特製の香水は持っておいてほしい。いざって時のためにね。」
「…ありがとう。でもさ。
やっぱり両方貰うわ。なんなら直接買うから。」
そうして、かいりはテルキ特製の『神業の香水』を手に入れた。
「…な、なんだあ。何ていうかこう…お思ったより、対した事?ないわねね。」
「いや、なんで瓶持っただけでもう動揺してんだよ。」
「違法じゃないんだから普通の香水と変わらんぞ?」
無冠の英雄、かいり。この子は味方の死に際を見た事が無いと聞いている。
おそらくば無意識に、命を奪う死という事象を避けている。その優しさゆえに。そういう甘えは往々にして、命取りになるだろう。
けれども…きっかけ一つで甘さを捨てられるクレバーな強さも秘めている。
やっばいなんたら違反じゃない持ってるだけでアウトじゃなかったっけヤバい逮捕されちゃう。滅茶苦茶同様の色を見せるかいりを傍目に、そう彼は判断した。