(※ただの推し語りです)
初代アストルティア勇者 アシュレイ殿
桜雨にまじりver6.5の足音が聞こえてくる昨今、
いかがおすごしでしょうか。
アストルティアの末席を汚すいちドワーフが、おこがましくも筆をとりましたのは
貴殿のいう「ハイカラな祭り」、
先日のアストルティアナイト総選挙の件について、どうしても一言申し上げたかったからです。
貴殿が気にされていた順位のことではございません。
「やっぱり こんな ハイカラな祭り
俺は 不釣り合いだったのかもな……。
ふがいない姿を見せて すまなかった。
こうなりゃ 次回までに イマドキの流行を
勉強して 最先端の先代勇者! として
リベンジしてやるぜ!」
違います。
違うのです。
恐れながら申し上げますが貴殿は何もわかっていません。
「ハイカラって言葉自体がすでに死語だよ」なんていう野暮なツッコミではありません。どうでもいいのですそんなことは。
貴殿は、アストルティアにおける勇者の始祖なのです。
私が申し上げたいのは、その貴殿が、
アストルティアナイト総選挙という、
我々のような下々の者のために用意された、世俗にまみれた大衆イベントのために
自身を見誤り、貴殿の最強の魅力を捨てようとしているのが私は悲しいのです。
流行に長ける、ということは、
周囲をよくよく広く見渡し、いち早く情報をキャッチし、もたらされる情報によって自身を変化させることを厭わず、
受け入れたその変化を、自身の表現としてより魅力的に発信できるということです。
たしかに、もし貴殿がそのような人物であれば。
もしかしたら双子の弟のことをもう少し理解できたかもしれません。
ダフィアが一人であのような所業を背負う必要もなかったかもしれませんし、
治世ももっとうまくいったかもしれません。
貴殿は、貴殿の人生をもっと楽に生きられたかもしれません。
しかし、貴殿は流行に疎いのです。
貴殿は鈍い。
貴殿は野暮ったい。
貴殿は器用ではありません。
貴殿は純朴で、そして清高です。
だからこそ常に何かを選択することを強いられ、
その行動によってもたらされるものが正解だったのか誤りだったのかも判断できず、
それでも正解だと信じるしかなく、それを正解にするしかなくて、苦しみ続け、
その苦しさの上に立ってなお常に明るく強く正しく在ろうとしたのが、初代勇者アシュレイではないのですか。
貴殿が勇者であるということは、
その姿こそが、この世界にとっての希望、勇者であるということの『思し召し』に他ならないと私は思うのです。
貴殿の子孫であるアルヴァンは、
カミルの気持ちが分からなかったために自身と彼女に悲劇をもたらしました。
現世の勇者であるアンルシアも向こう見ずで、視野の広いタイプではありません。
自身を守る存在であるはずの盟友をかばって石になったり、寿命を差し出したり平気でしてしまいます。
しかし、アルヴァンやアンルシア、そしてきっとアジールも、
本人のこの気質こそが人々をひきつけ、奮わせて、運命づけ、そして世界を救ってきたのは間違いありません。
6.3の終盤だって、レオーネが遺した最期の言葉は「兄貴を頼む」でした。
「アストルティアを頼む」ではなかったのです。
【盟友だから】という理由ではなく、【貴殿が兄だった】からこそ、最期の最期でアストルティアを救う選択をしたのではないでしょうか。
貴殿を貴殿たらしめる魅力、そのものが、
そのままこの世界では勇者の力の本質であり、源流であり、
勇者の歴史の根本をなしているのです。
伝えたいことが伝わりますでしょうか。
イマドキの流行なんてまったくもって貴殿には不要のものであり、
貴殿を勇者としてこの世界にもたらした神への冒涜ですらあります。
理解していただけましたか。いただけましたね。
アストルティアナイト総選挙における流行のふるまいは、他のキャラクターに任せておけばよいのです。
勇者ではない時の誰かが立派にやってくれるのだから。
No.1のナイトでなくても、
貴殿はアストルティアの歴史においてファースト、No.1の始祖の勇者なのだから。
Ver6の結末が近づいてきています。
自責の念で苦しんでいても、前をむいて明るさを掴もうとするその力の不完全さこそが勇の民の本質、象徴だと思ってます。
そんな貴殿が、完全な存在である神様になってしまうのか…と思うと寂しいのですが、
よく考えると、ちょっと頼りないくらいがこの世界の神様にふさわしいのかもしれません。
Ver6.4で遊んだり、ルティアナを思い出したりしてそう思いました。
長々と申し訳ありませんでした。
春暖快適の候、ますますのご健勝をお祈り申し上げます。
敬具