(以下バージョン7.1までのネタバレがあります。)
心理学者のユングが書いた夢分析の文章によると、夢とは
「意識的な精神の影響下にはない無意識的なこころのプロセスの表現としてやって来るのです。夢はあるがままの姿で、内的な真実と事情を表現します。」(みすず書房『夢分析論』p.8)
と定義され、夢は無意識から作られ、何かしらの真実を伝えてくれるようです。
ところが、バージョン7.1のトープスによると、ジア・クト襲撃時の恐怖の記憶が住人たちに悪夢として現れたそうです。
ジア・クト襲撃に関する具体的な内容がトープスや村人たちの口から出て来なかったのも気がかりですが、
もうひとつ腑に落ちないのは、トープスが住人を眠らせただけでは、恐怖は無意識に抑圧(意識から排除)されてしまい、悪夢の原料である恐怖が住人のこころに残ったままになってしまっているはずです。
住人たちが悪夢を見続け出して結果的に悪夢が一人歩きしたということは、眠る前から無意識に襲撃の恐怖が抑圧されたままになってしまっていたはずで、これが悪夢という夢の材料となり、夢の中の「私」(「夢自我」)を苦しめたのでしょう。
人の心は、深層心理学に属するユング心理学によると、上から下に、「意識」「個人的無意識」「集合的無意識」の三層構造をなしているそうです。
「意識」「個人的無意識」は各人の人生経験により作られ、個別の内容を持つそうです。
「個人的無意識」は、意識において忘れられたもの、不都合なので抑圧(意識から排除)されたもの、印象が薄かったものなどがたまって作られるそうですが、
「不都合なので抑圧されたもの」というとムニエカの町で守護天使ルーミリアが人形の魂のケガレを浄化の聖花石で浄化していましたが、もし魂が意識のありかとするなら、
あの装置や「ムニエカの深層」というダンジョン名が、個人的無意識の象徴だった可能性はあるでしょうか。
ちなみに「深層心理学」の「深層」とは無意識のことを意味します。魂(意識)のケガレをムニエカの深層(無意識)に抑圧(意識から排除)する装置が浄化の聖花石なのではないかということです。
メネト村の住人の恐怖が意識から排除され向かった先は、各人の個人的無意識なのではないでしょうか。
そして、個人的無意識のさらに下にあるのが「集合的無意識」で、この「集合的」とは〝時代や場所を超えて誰にでも共通の・たったひとつの〟くらいの意味があり、「個人的」の反対の「非個人的」という意味です。
バージョン5.3で「始まりの大魔王の舞」というしぐさを習得しますが、「主人公の身体が 無意識のうちに 謎のステップを踏みだした!」と説明があり、
砂の都ファラザードのマッサージ師ユースティは「お客サマ 意識 戻ってきたネ?」と言うことから、
恐らく集合的無意識にアクセスすることで、時代や場所を超えてしぐさが習得できたようなのです。
ちなみに、深層心理学諸派では無意識の存在を認めていますが、「集合的無意識」を仮定しているのはユング心理学のみだそうです。
夢とは、集合的無意識から、浅い層である個人的無意識を通って、意識に届くメッセージのことで、その外表が夢を見る人の個人的要素でコーティングされるそうです。
なので、個人的無意識にあるジア・クトへの恐怖が薄れない限り、悪夢を見る危険性は今後も持続し続けると予想されます。
バージョン7.1でコッケン音頭を踊って一見ハッピーエンドに見えた住人たちは皆襲撃の恐怖を抱えたままのはずなので、一時的な解決にしかなっていないはずですし、
実際メネトの悪夢は、何度でも蘇ると次の犯行を予告していました。きっと恐怖という悪夢を生み出す原料が住人の個人的無意識に残ったままだからでしょう。
現実世界視点では、精神療法や薬物療法などによる治療が必要なほどに恐怖の傷が大きかったのかも知れません。単に眠らせるだけでは悪夢を見続ける悪循環に再び陥ってしまうはずです。
にもかかわらず、7.1終盤でトープスは創造神グランゼニスに創生のチカラを返すために消えてしまいます。
悪夢がまた出たら何度でも消してやるとトープスは宣言していましたがそれも叶わなくなり、住人の恐怖の治療もなされていないので、ムニエカの町同様に救いのない終わりになってしまっていないでしょうか。
リオネ(バージョン7.0 ムニエカの町)
「私たちは人形なので食事を取る必要も眠る必要もありません」
ゾーグル(バージョン6.0 天星郷)
「我々天使には食事や睡眠は必要ありません」
発言内容が“意味のある然の一致〟になっているようで、少なくとも守護天使トープスは夢を見ることができています。
天星郷の天使は夢は見れるのでしょうか。
メネト村の謎(2)へ続きます。