(以下バージョン7.1までのネタバレがあります。)
以下、メネト村のストーリーの補足です。
前述の夢・無意識に関する本『夢分析論』『夢の臨床的ポテンシャル』や、そのほか夢分析に関する本を参照すると、
夢分析の経験豊富な学者たちが、夢を見た者(夢見手)に、夢を文章や絵で記録に残させたりしゃべらせたりすることで、夢にどんな特徴があるのか研究していたようです。
その中でも、メネト村やムニエカの町の夢の話に通じそうなものをいくつか書き出してみます。
・夢の中にいる「私」(夢見手)は「夢自我」といい、意識は備えている。だから昼間の意識に似た考え方や感じ方の癖を持っている一方で、
エネルギー水準が低いため、清明な意識状態であればしないような判断をしたり、行動したりする。
無力な少年トープスは、眠れるティセに花を捧げ続けたり、初対面のヒューザから逃げ出したり、夢見の香炉の魔力が主人公の創生のチカラで増幅されるとその光に気付いて心の底から驚く様子を見せたり、夢における判断や行動が守護天使の時のものとは異なっているようで非常に子どもっぽいです。
7.0では主人公に対し「お前 とぼけた顔してんのに すごいヤツなんだな……」と、守護天使の大人っぽいトープスであればこうした侮辱的な発言はしそうになかったです。
・夢とは自然、あるがままの姿で心の状況を描くものであり、共同社会に適応するためにどうしても一面的にならざるを得ない自我・意識に対する「補償」の役割を果たしている。
・夢は、自我の偏りにターゲットを絞って補償し始める。特に、自我が行きづまった場合、自我に欠けている観点がある場合、その傾向は特に顕著になる。
守護天使という立場上恐らくできなかった、ティセに花を捧げる行為が夢では行うことができています。
そして、花を捧げる夢が、トープスを無力な少年から守護天使へ復活させるカギにもなっていて、彼の夢が、悪夢との戦いでチカラを失っている現実のトープスに対し、失われた創生のチカラを花冠で届けるという「補償」をしてくれたようにも取れます。
・夢とは意識がない時、眠りの中で生ずるものであり、このイメージそのものが象徴性に満ちている。象徴とはそのイメージでしか表せないものであり、言葉による言い換えのきかないものである。
・夢分析では、夢を記録し、そこに含まれている無意識からの補償的なメッセージを理解しようと試みる。
そして、意識によるものの見方や考え方にそのエッセンスを取り入れること、もしくは取り入れないことが、無意識に対するおのずからの返信となる。
すると、次には無意識がまた、その返信に対して新たなメッセージを送ってくるのである。
したがって夢分析は、イメージを介した意識と無意識との対話である。
ただしこの方法は意識と無意識の間接的な対話であり、無意識からのメッセージを断片的にしか受け取ることができない。
ところがこれがメネト村のストーリーの場合は異なっていて、眠っている住人や、起きている永眠のフクロウ魔人、トープスを裏切ったフクロウが、象徴の意味を言葉にして説明してくれます。
本来、象徴やイメージを解釈すると、人によってどう見えるか変わってしまい、夢見の専門家たちが同じ夢を解釈してもその解釈が割れることもあるようなのです。
なので夢の中の人物が現実世界に現れてしゃべったり、睡眠中のキャラクターにねごとでセリフを持たせたりすることで、夢の持つ意味がだいぶ絞りやすくなっていると思います。
フクロウは7.0時点では悪者に見えるものの、7.1のトープスの話から彼の手下であり滅びゆくゼニアスからメネト村の住人の命を救うため眠りを維持していた可能性がうかがえながらも、裏切ったフクロウもいるというところを、言葉でなく象徴だけで解釈し切れるのかというと、まず無理だと思います。
メネト村の謎(5)へ続きます。